水を撒く

わが家の庭には薔薇の木、レモン、ザクロ、リンゴといった花と果物の木があります。また小さな菜園でネギを植えています。とても小さな裏庭ですがいまのカリフォルニアでは贅沢になっています。新しい家は我が家の半分くらいの土地に日本の都会のように2階建ての家を建てるのが普通になっているのです。土地がとても高いのです。我が家は築65年は経っている古い家でそのころこの辺りはまだ果樹園だらけだった場所。もう開発が終わってしまった場所でゆったりとしています。

さてこれら植物には水をあげる必要があります。雨が降らないカリフォルニア、自然の恵みでは果物や花々は育たないのですよ。水をあげないと枯れてしまうか全く実をつけないか、つけても(ザクロ)酸っぱくて美味しくないです。

そのみずやりについて。はるか以前こんな話を読みました。ある教会に牧師夫婦が赴任してきました。牧師の奥さんは庭に木を植え、それは大切に大切に育てました。時が過ぎ牧師夫婦が共に他界したその年、例年には見られない強い風がふいた日がありました。その突風の次の日の朝、教会を訪れた人はそこに牧師の奥さんが育てていたもう大木になっていた木が倒れているのを発見しました。大木が倒れていた理由は根が張っていなかったからなのです。牧師の奥さんは大切に育てたのですがいつも水を幹のそばに撒いていたため木が根を張り巡らして水を探しに行かなかったために根が育っていなく、もろかったのです。

もちろんこのお話は比喩のためのお話です。昔の言葉に”かわいい子には旅をさせよ”とありますがそれをこのお話は伝えているのです。手塩に育てたのは良いがそれがためにもろくなっていたのです。風雪に耐えるための根を張ることなくそだったので突風に耐えることができず倒れてしまった。 

子供に水やりを任せていた時期があります。でもね、薔薇が全く咲かなくなったのです。おかしいな~と思いました。水をあげているか?と聞くとちゃんとしてると言います。でも全然花をつけないのですね。そこである時水やりを見てみました。水が足りない。。。植物の根に水が届かなくてはいけないのです。ちょっと水をあげても土が濡れるだけで根っこまで水は届きません。これでは薔薇は水を得ることができずしたがって花をつけません。水はあげるならたっぷりと挙げる必要があります。薔薇に限らず例えばネギの場合、たっぷりあげると何度も成長してネギを収穫することができます。ネギは土が濡れる程度ならいずれ枯れてしまいます。

ここで言っているのは物事例えば語学の勉強、収穫できるほどにまで続ける必要があります。私は合気道(一応有段者です)をしていましたが稽古を始めた当時、先生は”最初はできるだけ時間を作って沢山稽古に来なさい”とアドバイスを下さいました。水が根に届くがごとく途中で辞めないことなのですね。根が張り始めると少しペースを落としても進歩は続くのですがそれ以前に水やり(勉強、稽古、経験)を辞めてしまうと土を濡らすだけで終わり収穫にはなりません。私も飽きっぽくすぐやめることが多いのですが水を濡らすだけではその努力もったいない。ぜひ根に届くまで続けたいですね。

水やり、時期もあるのです。レモンを植えていますが2年前はとても沢山の実を付けましたが昨年はほとんど全滅。違いは?水です。カリフォルニアは冬が雨季で雨が降ります。夏場は全く降りません(したがって山火事が多い)。2年前の冬は良く雨がふりましたが昨年はあまり降らなかった。それだけの違いなのです。今年(今冬)もあまり降らなかったのですが私は冬場から定期的に水をまくようにしていました。そうしたら今レモンの木には緑の実が沢山できています。レモンは秋から冬にかけて黄色い実を沢山つけてくれそうで冬場にはまた美味しいレモネードが作れそうです。ザクロもあるのですが美味しい、甘い実をつけるには水をその時期に沢山あげることはとても重要です。実が出来てからでは遅いのは経験で知っています。

ここで言いたいのは時期です。人生頑張る時期というのがきっとあるはずです。それも一度や二度ではなく何回となくやってきます。以前書きましたが私の場合、高校2,3年の時、USAにきて最初の年、カリフォルニアに移ってベンチャー企業時代(倒産の危機が3度あった)、子供ができた当時、などなど沢山あります。その時期に頑張っておくと美味しい実(成功、幸せ)を得る可能性はぐっと増えると思いますよ、これも経験から。

庭のレモンの木。緑色なのでよく見えないが実が沢山できている
庭(表)のザクロ。ザクロは水が少なくても実ができるのですが美味しくするには水が必要

でもね こらえられないようなことにも沢山出会います。それでも がんばれというのか? となりますが、私はよくそんなことを母に言っていました。母の返事はいつも、”お前の人生、やるも辞めるもお前次第。でも辞めて後で文句は言うな” でした。”文句”というのはそうですね、大人になるとやっかみでしょうか? ビリオネア、例えばビル ゲイツ氏たちに対するやっかみをよく聞きますが彼らの話を聞いてごらん。それは、それは努力して自分たちの全人生をかけて会社を興されたことがわかります。やっかむどころか、その成功に敬意を払う気持ちを持ちたいものです。しかも今その成功で得られたものを誰からの催促もなしにほとんど全て使って社会に貢献しようとその努力を今されている。アーノルドシュワルツェネッガーさんも今されているのは社会に貢献する努力です。成功されるためにあれほどの努力をされて、そして得たものを全部再び努力されて返していこうとされているのですから。私はこの2人の人にはいつか直接会ってみたい。

こらえられない事態になったらどうするのか? 私だけの経験でいうなら辞めることも一つの選択肢です。”転機がやってきたのかも”しれないからです。以前のブログで身近な人ではなく少し間を置ける信頼できる人を持つことを紹介しました。友人、家族、同僚、上司、恩師(学校の先生)は親身になってくれますが同時に自分のことについては”結局は他人”です(親は別ですが親は親の目がある)。身近な人は自分たちの目で”見ます(一番いい例が同僚と上司、それと顧客)。親身でずけずけとはしませんが結局は自分のことではないので”話をきく”だけになることが多いように思います。それでストレスの解消等にはなると思いますが、自分にとって”転機”が訪れたのか、そうだとしたらどうしたらいいのか、その相談相手がいると心強いですね。とくに自分と利害関係の全くない相談相手ですね。人はよほどのことがなければ”苦労して手伝ってはくれません”、というのもその人にも生活があるからです。学生時代とそこは大きく違うところですね。大人の利害関係というのは複雑なので学校を出で間もない若者はそれに戸惑い、驚きそして失望していくことも多いです。だから、というわけではないですが信頼できるが利害関係のない(つまり少し離れている)人を相談相手として持っていることはきっと人生を豊かにする手助けになると思います。

水を探しにいこう。

水を撒くなら根っこに届くまで十分に

水を撒く時期があることを知ろう。

そうそう、栄養分も折に触れて補給すること。大地がとても肥沃なら良いのですが今の日本、大地が疲弊しかかっています。爺世代(私ですね)がめちゃくちゃに使ってしまったこともありますが新しい栄養分が必要だと思います。さしずめ、これは新しい産業の創出とでもしておきますか? あとは外から補給。これって外から中に入ってくるのもありますが、”中から外”に私はもっと注目したいです。 先ほどの”水を探しにいこう”がそれですね。外にでて、そして”持ち帰る”のです。それが栄養分になるでしょう? それには、私のブログの根底をなす、”どんどん外に出て実際の経験を積んでほしい”というところに行きつきます。

最近は工場での栽培が盛んになっています。水栽培ですね。根っこに直接水、栄養を補給するのでとても効率は良いのです。食料工場としては効率は重要ですが、大木を育てる方法ではないですね。 大木を育てるのか食料を育てるのか、どちらが良い、悪いではなく、自分の人生をどちらに向けて豊にしていくのかも時には考えてみるとよいですね。

最後に本を読むと良いですよ。ブログでも、ビデオでも、Tweetでも、Facebookでもなく良書を沢山読むと自分に対するとても良い水撒きになります。

そうそう、その本について。これは以前日本で少し年上ですが私と同世代のお客さんと夜食事をしたときに出たはなしです。その方はある大企業の事業副本部長兼、開発部部長という地位の高い人物でした。ある時若手の部下に書籍を薦めたことがあるそうなのです。そしたら、その部下に”パワハラですか?”と返されたそうです。詳しいいきさつははかり知ることはできませんが書籍を推薦してそう返されたと非常に嘆いておられました。パワハラ。。。 爺たちですがそんなつもりで書籍の推薦とかをすることはありませんよ。それ以来その方は書籍の推薦等は一切やめてしまったそうです。とても残念がっておられましたがもうすぐ定年を迎えますし今更何か問題になりそうなことはしたくないようにおっしゃってました。残念ですね。

久しぶりにがちがちに硬い話になりました。昭和世代は非常にまじめなのですよ。で、ブログには写真を付けることを基本にしていますがこんながちがちに硬い話に何が合うのかな~と思いました。 タイトルに挙げた写真は中国は万里の長城です。北京郊外にある観光地に行ってきましたが これを作るのはまあ努力のたまものですね。そして、歩くのも努力がいる。とにかく階段だらけで現代人はひーひー言いながら歩いていましたがそこを守った衛士は武具を付けて走っていたのですね。

映画スターも努力のたまもの? 

PRAHA (Prague) Part 1

プラハ (PRAHAとチェコ語では書きますが英語になるとPRAGUEになる)。私はずっと以前から東欧の町、とりわけプラハとブタペストを訪れたいと思っていたのです。以前に書きましたが一年ほどチェコにある会社のコンサルタントをした関係でプラハに行くことができたのです。一つ目標を達成した気分です。

出張のついでだったので短い滞在でしたからほとんど寝る間を惜しむように町を徘徊しました。会社のあるBrnoから電車で3時間、一等車に乗ると車掌が食事(別料金)を伺いにやってきます。電車はゆっくりと田舎をずっと走りますが突然都会が見えてくるとそこがプラハです。プラハはヨーロッパでも人気ある観光地です。物価が安いんですね。EUのメンバーですがチェコはEUROではなく自国通貨を維持していますがアメリカドル、ユーロとの交換レートで考えるととても格安に感じました。ちょうど夏場だったのでそれこそ観光客でごった返しておりました。特に若い人に人気があるようで大学生らしい人たちで溢れていました。

川が流れる町は美しく感じますし発達していますね。昔、川は重要な交通手段でした。ロンドン、ボストン、ポートランド(オレゴン州)、パリ(行ったことはないのですが。。。)、ウイーン、リンツ、ニューヨーク、皆、河がありますね。そうそう、東京も、大阪も京都も川が流れています。プラハも町を川が流れていて橋を通して市街地と王宮のある丘をつないでいます。橋は観光の名所で沢山の人が出ていました。私は川の流れる町が好きです。残念ながら私の住むシリコンバレーには川はないのです。

プラハ旧市街。
市街を見下ろす
シナゴーグ
広場(夜)
残念ながら古いIPHONEだったのできれいに撮れていませんが川の袂からみた王宮。ライトアップされてとてもきれいでした。

町は旧市街が観光の中心になります。以下にいくつか写真を添えておきます。川を渡って丘に向かうと旧王宮がそびえたっていますがとても広い。王宮は中を見て回るだけでも半日はかかるのではと思います。ツアーもあるのですが私は一人で見て回りました。王宮の丘からダウンタウンを見下ろしてもとてもきれいです。王宮の写真をいくつか載せます。聞いたところではヨーロッパでも有数の大きな規模で中には大きな教会を含め王宮で働いていたであろう人々が暮らした町のような一角もありました。

王宮内
王宮からプラハ市街を見下ろす
王宮(パノラマ)

新市街地(?)に至る所には大きな通りとその先に美術館がありましたが行ったときはその大通りで”PRIDE”の集まりが催されていました。チェコでPRIDEに出会うとはおもいませんでした。 PRIDEというとサンフランシスコとバンクーバーがよく知られているのです。その新市街地を歩いていくとカフカの像(動きます)のある一角にでます。カフカをご存じですか?“変身”とたしか日本語訳ではなっていると思いますがある日”虫”になってしまった人を描写した著書で知られるチェコの作家です。大学の何かの講義で出てきて読んだことがありますがチェコが誇る作家なのですね。

カフカ像
カフカミュージアム

旧市街を歩いていると古い建物がとても多くありますがそれに交じるように飲食店、土産物(ボヘミヤン ガラスやチョコなど)そしてなぜだかタイ式のマッサージのお店が沢山ありましたよ。チェコはベトナム系チェコ人がとても多いのですがタイ式のマッサージには驚きました。

土産物屋のショーウィンドウ
宿泊したホテル。中央駅のすぐそばにあった。

プラハでは半日のガイドツアーをしましたが、たまたまなのですが私一人だけでツアーガイドと二人だけになったので気ままなツアーができてよかった。おかげで色々ときくことができツアーでもなければ知ることがないようなところにも連れて行ってもらえました。Jewishのシナゴーグ(中には入れませんが)、バドワイザー(本家本物。アメリカのバドワイザーとは全くことなるとても美味しいビール)発祥のパブ(?)、カフカのかかわった家、などを見て回りました。案内の女性はとても親切で5か国語を話せると言っておりました(チェコ語、ドイツ語、英語、スペイン語とチェコ語にとっては方言のようなスロバキア語)。ヨーロッパでは3か国語わかる人はあまり珍しくはないないですが5か国語というのはさすがに驚きました。色々な国の言葉がわかると旅行はとても楽しくなりますから私はツアー中ずいぶんとチェコ語も習いました。使う機会は限りなくゼロですが全く新しい言葉なので興味はあります。

ホテルはプラハ駅すぐそばに取りました。マリオット系列のホテルで少し高かったのですが、上司がこれまでの殺人的な出張(ほど3週間に一度海外に出ていた)をねぎらうため?特別に許可がでました。部屋の写真を撮っておくのだったと思うほどに良い部屋で男一人にはもったいないホテルでした。

観光客で一番多そうだったのは北欧からの学生だと思います。ちょうど夏で学校は休みだし、プラハだとパリ、ロンドンより少ない予算で長く滞在できますからね。アジアからはここでもやはり中国からの観光客が一番多かったと思います。日本語はほどんど耳にしなかったです。目にもしなかった。観光客の使うお金は大切な収入ですから中国人観光客が増えたら中国語の表示は当然増えていきますね。私世代の日本人の知人に言わせると”もう観光は終わった”とのことですが、私世代の話であって若い人はこれからのはず。言葉がわからなくったって何とかなるし町を歩くだけでも色々と発見もあります。このブログが”旅ブログ”になるほど有益になることはないのですが一度も海外に出たことがない、というのであればどこかに行ってみるのはどうでしょう? プラハをその最初にと薦めるわけではないですが(言葉を考えると英語圏の方が良いかな?)中規模の町であるプラハは歩きやすいですよ。 ロンドンなど、何度も行ってますが東京と同じで大きくて数日の滞在ではほんの少しだけになりますがプラハクラスの都市だと数日あれば全容を見て回れそうです。 私は一日半しか居なかったのですが(次の目的地がある出張の途中だったので)。

パート2に続く。

友人

ヘイトスピーチがこの4年ほどここUSAで大ぴっらになっています。国の指導者がそれを助長するというこれまでは考えられなかった現状、非常に危険な現状を見、とても憂慮しています。歴史は繰り返すと言われますがどんな大国もいずれ内部から崩壊していくのです。その崩壊を見るようで将来が心配です。ソビエト(今のロシアを含む)も内部崩壊したのです。外部からの侵略ではなく。大英帝国も内部崩壊をしたのは知られています。大国は内部崩壊にとてももろいものです。これは歴史をよく勉強するとわかります。かのローマ帝国、ゲルマンの大移動で崩壊したように中学、高校の歴史で習うかもしれないですが、実情は内部崩壊です。事実侵略があったおかげで帝国の一部(東ローマ)は生き残ったのですから。侵略が内部崩壊を止めた(一致団結)とも言えます。東ローマ帝国はその後やはり内部崩壊をします。アメリカも以前に内部崩壊の危機がありました。南北戦争です。あの時は偉大な指導者、リンカーン大統領が救ったわけですが今はそんな指導者がいるのか?と思う。歴史家、多数の一般国民の一致した意見として一番偉大な大統領というと初代大統領であるワシントンよりリンカーンを挙げる人が多い。今日現在の人は最下位に近いところにいますがね。

最近、日本でもヘイトスピーチが公然のようになっており非常に憂慮します。特にTwitterは匿名性もあるのでひどく荒れていると聞きますがYOUTUBEで公然と嘘、一方的な意見を吹聴するビデオを見つけることもありますしブログも非常に過激で荒れていると聞いたことがあります。何も知らないでそういったヘイト、嘘を広げている、それを伝達しているのはとても憂慮することです。

どうしてなのだろうか?と考えたのがこのブログを始める一つのきっかけです。私はこれは現在の内向きな志向に一つの解を求めてしまいます。前に書きましたが人間は基本的に内向き、いや外に出ないそうです。人間の活動範囲(生涯)は自分が生まれた地域の半径100キロ圏が大半であると以前何かの記事で読んだことがあります。交通手段が発達しても日常生活圏を考えるとそんなものでしょう。時々旅行をするにしてもね。しかも最近は旅行も”近場”になりつつありますしね。また類は類を呼ぶがごとく同じような”類”といたいという気持ちも強いそうです。アメリカ人が行きたい外国というとカナダ、イギリスなど英語を基本とする国が上位に来るのもそこにねざしているわけですね。

それに最近は何でもバーチャル、オンライン。そこで得た知識だけで物事を見るようになっていると思います。 経験 が欠如しているのですね。それと関係です。 なんでもオンライン友達、いやもっと進んでオンラインの恋人までいるとか。 古い人間である私には全然ピンとこないのです。オンラインで関係を深められるとは思えないのです。在宅勤務が昨今話題になりますが私自身、GAFAの一社に勤めるのですが私の会社は今もキャンパス拡張(新しいビルを建設中)しておりいかにしてエンジニアはじめ従業員をオフィスに戻せるか、検討を進めています。シナジーはバーチャルでは達成できないことを知っているのですね。在宅勤務は基本的に考えていないのですね、ですから。

さて、私は中国、韓国、台湾、UK, イスラエル、ドイツ、チェコ、オランダ、カナダ、そして日本とアメリカに友人と同僚がいます。彼ら、彼女らとは現地で一緒に仕事、食事等をしてきた仲です。皆親切で良い人たちですよ。イスラエルへの出張の帰りにUK(ロンドン)によったことがありますが、忙しいなか、ヒースロー空港まで出迎えに来てくれた友人もいます。帰りもホテルから空港まで送ってくれました。こういった国に友人がいるのにその国(国民)を一概にヘイトすることはできない。国によっては、もちろん政治体制など私の個人的考えと合致しないところもありますが XXXX人 大っ嫌いと言っておいて自分にはXXXX人の友人がいるとは言えないでしょう?好き、嫌いは個人的なことです。自己の経験ではなくバーチャルな情報(映像、音声、文章)だけで自己の経験基づかない、それを基に自分もヘイトを伝搬する風潮が昨今溢れておりとても危険だと思います。実際には何も知らないでしょう?

バーチャルな環境でいると、そうですね、例えばイラン人、あまり良い印象を持たないのではないでしょうか? 私は過去、そして現在の上司にイラン人がいます。どちらも上司であり、同僚でありそして友人です。今の上司はこんなに頭の回転が速い人にはあったことがないと思うほどにエンジニアリングで優秀です。以前の上司は穏やかで辛抱強かった。今でも大切な友人です。私の知るイラン人は彼らと彼らの周りの人たちだけの個人経験ですが良い印象を持ちます。また、ニュースしか知らないとイラン人とイスラエル人はいがみ合っているように思うかもしれませんが私のイスラエルの友人とイラン人の友人は彼らも友人どうしですから3人で食事もします。国と国、と個人は決して一致しないものなのです。

トルコ人、ロシア人、テキサス人(アメリカ人)、コロラド人(アメリカ人)、アメリカ南部の人(マイノリティーを含む)、カナダ人、ヨルダン人、アイルランド人、そしてインド人も皆、現在、そして過去一緒に働いた同僚、友人、上司です。私はトルコ人を2度上司としたこともあります。私は幸運なことに同僚、上司にはずっと恵まれているので皆会社を辞めた後も連絡を取りますし、今でも仕事、仕事以外でも助け合う仲です。 

私のブログを見ていただくとわかると思いますが私は若い人たちに個人経験を深めてほしいと思っています。それがとても大切だと思います。実際の経験で、決してバーチャルではない経験です。オンラインが内向き志向を助長しているのではないかな、と私はそんな会社で今エンジニアをする者として危惧しています。

私は人間、エンジニアとして大して成功したわけではないのですが、私自身の人生一番の達成は?と聞かれたら私はきっと”世界の色んな所に友人がいることと世界の色んな人と一緒に働いたことだ”と言うでしょう。これが私の唯一の自慢です。

盛り付けがきれい

どんな写真が良いかなと思いましたが友人関係を深めるのは何といっても食事です。写真は私の大切な日本の友人とした食事から。日本は盛り付けがきれいですね。また、日本でカプチーノをオーダーすると写真のような素晴らしいアートをサービスしてくれることもありますね。LAそばのトーランスという町は日本人が多いのですがそのトーランスの日本食レストランでもこんなカプチーノをオーダーできました。

杭州に出張したとき。事前に予約しておかないと食べれないそうですが夕食のために前もって予約しておいてくれた。ぜひ私に味わってほしかったからと言ってました。嬉しい限りです。この日は杭州に宿泊しました。

親の教え

私の両親は第2次世界大戦をなんらかの形で経験している世代です。おそらくは最後の世代に入るでしょうね。当時母はまだ子供だったはずですが戦争は知っている、という世代です。私は戦後の一番大変だった時代の直後辺りの生まれですが私の姉は50年代の生まれです。あの当時、大人は忙しかったから私の世話(おんぶしたりね)を全部したと、まあよく言われました。こっちは全然覚えていませんが嘘をついているのでないのはわかるので”ありがとう”と言っていました。ちなみに兄弟のなかで私は姉と一番近い(仲がいいという意味で)。今も姉にはあまり頭は上がりません。何しろおんぶして子守をしてくれたそうですからね。

子供のころ、私はあまり”勉強しなさい”といったことを言われなかった。それにあまり何も習わなかった。。。とにかく大人がとても忙しい時代でしたからね。父親はほとんどおりませんでしたし。両親不在(私にはまだ祖母が居ましたがめちゃくちゃに厳しかった。。。祖母は明治生まれ。明治生まれには勝てないですよ、どんなに頑張っても)したがって子供は勝手にしているわけですな。勝手にすると勉強する子は勉強するし、遊ぶ子は遊ぶ。私は遊ぶ子でしたね。後年、高校に行ってがらりと変わりましたが小学生、中学生のころは遊ぶだけ。全く勉強はしていなかった。やってどうなるねん?と中学に進んだころにはもう勝手に自覚してました(かなり投げやりな中学生活でした)。

そんなですが母親から日頃言われ続けたので今でもよく覚えている言葉は

やってから文句言いなさい

です。 やる前から文句言うんじゃない、ということですが 良いように遊んでいると”XXXXしなさい”と呼びに来るわけですよ。せっかく遊んでいるから”後でやる”とかなんとかいうじゃないですか、子供って。 そうすると”やってから遊びなさい”となります。それでも文句言うと”やってから文句言いなさい”と。いつもこのパターンだったと覚えています。 

やったあとで文句を言った記憶はあまりないのです。結局親には逆らえないので”やった”(と思う)のですがそれから”もんく”言ったかな?と記憶を辿っても出てこないのです。やり方がだめだと呼び戻された(そしてこっぴどく叱られた)のでそのうち最初からちゃんと(もっとも子供目でのちゃんとですが)するようになりました。文句を言わなかったのは、おそらく”直ぐに遊びに行ったから”だと思うのですが、終わってしまうとあまり文句って出ないものなのでしょうね。 やる前に文句がでるのです。 だから”やってから文句言いなさい”となるわけだ、と今くらいの歳になるとようやく悟。。。

おかげでかどうか、この歳になっても日頃バタバタしています。なんか、やり残したことがないかな?と。全部やりきってからでないとゆっくり休めないのです。”後でやったら?”とか、”まずはゆっくりしてから”と言われますが中々出来ない。忙しい体になっているのですね。出張から戻ってもすぐさまスーツケースを開けて中の整理を始める、ジェットラグでとても眠くなっていてもとりあえずスーツケースをかたずけないと落ち着けない。。。 いやはや な性格になっていますが ”子供のころ、そうやって育ったから仕方ない”というと、”変えてみたら?”と言われます。たしかにね。 もうゆっくりしてもいい歳なのかもしれない。。。せっかくの休暇でも目的地につくなりバタバタ。。。これは嫌がれますよ、まじに。性格悪いですな、私は。

この”やってから”が日本の経済を急激に復興させた原動力のひとつだと、でもね、最近より悟るようにもなっています。昨今見ていると、やる前に文句言う、が多いように思う。USA, 日本しかり。どこでも。いや、ひょっとするとベトナムなどのアジアの新興国と中国は違うかもしれない。ちょうど昔の日本の状況でしょうからね(これからもっと飛躍するでしょう)。以前、現リシュモングループ(高級ブランドを傘下に収めるヨーロッパの一大企業)のオーナー(彼は南アフリカ出身)の記事を読んだことがあります。彼はそのころロンドン在住だった(はず)ですが、いつも空港等に朝早く出かける際の車の中からアジア系の住民が朝早くから働いている姿をみて”ヨーロッパ人はどこにいるんだ?”と書いていました。夜遅く今度は帰宅する際にもアジア系の住人はまだ働いている姿をも見てアジアがこれから経済的に大きく飛躍することを肌で感じたとも書いていました。とても古い記事です。

というわけで今日もバタバタしています。

そうそう、もう一つ頭にこびりついているのは

汚い言葉を使うものじゃない

です。わけても ”ちく**”は言うと怒られました。おかげでこの言葉今でも出ません。悪口じゃなくて汚い言葉です。悪口は言わないほうが良いに決まっていますが、やはり人間、出ることもあります(でも口汚い悪口は口にしません。これはものすごく怒られた)。昔は大人がきちっと教えていたのですね。

という話でした。 ”やってから”この歳になると母親には感謝します。お陰で今の自分があると実感できるからです。 

さて表題の写真は真空管ラジオです。EBAYで古いキットを落札して作りました。とても簡単な回路構成ですがちゃんと稼働しました。私が大学に入ったころにはすでにトランジスタ回路が講義の主体でしたが実験ではまだ真空管に触れる機会がありました。また電機、電子工学を大学(工学部)で選択したきっかけは 子供のころジャンクヤードで見つけた真空管ラジオだと思う。。。 いつもこんなキットをEBAYで探していますが中々見つからない。日本の秋葉原も今ではすっかりアニメ、キャラクター、ゲーム、コンピュータが大半を占めるようになり私のような古いエンジニアにはガード下の一角を除くと別世界になっています。ガード下の小さな店はいまでも大好きです。楽しい発見をします。

成都

日本語と中国語で発音がずいぶんことなる町です。中国語だと大体のところ”チェン デュ”と言った音でしょうか? 中国語は一つの漢字に一つの音が基本ですから一度日本人が知っている漢字の音を知れば書いてある中国語はだんだんと発音できるようになります。中国語の難しさは5つの基本的なイントネーション(上がる、下がる、下がって上がるなど)があることですね。それによって意味がずいぶんと変わってくるのです。でもね、中国人の友人に聞いたら話しているときは少しくらい外れてもコンテキストで理解できることも多いそうです、もっとも似たようなコンテキストだと誤って理解されるのでやはり音をしっかり覚えるに越したことはないです。

ここは四川省の都で上海から随分と西になります。パンダでとても有名でこんなYOUTUBEが人気です。https://www.youtube.com/watch?v=izxkKkG3kzI。残念ながら私は行くことができなかった。私の上司は行ったのですよ!彼は現地のセールスにパンダを見に行けるスケジュールを作ってもらったとかで。。。こちらは地獄のような中国スケジュールをこなしているなか、悠遊なスケジュールを組んでいたんですね(彼とは現地で会いましたが私は北京で顧客訪問がありましたが彼はそれがなかった。。。技術ミーティングは私一人のことが多かったのです)。そのセールス、今度はそんなスケジュールを作るから”と言っておりましたが退職(彼女が先に辞めた)でお流れ、そのうち私も辞めたのでもうチャンスはないかな?

成都まで旅行で行くことはあまりないのでは?と思います。パンダが好きでパンダを見る旅をしているのでしたら行くのかなと思いますがそうでもなければ中国の歴史を勉強しているとかを除くと少数ではないかと思います。歴史で言えばここは三国志の諸葛孔明などでも知られた地域で中国国内では観光地の一つになっているそうです。

はるばるこんなところまで行ったのはここにもハイテク企業団地が出来てきているからです。最近何かと話題はHuaweiも大きな施設を持っています。何事も巨大な中国でのこと、施設はやはり巨大です。道路整備もされていますがその道路からして幅広(ずいぶんと立ち退きさせたに決まっていますがね)。

以前も書きましたが上海、北京は”高い”んです。物価が高いのとそれに比例するように賃金が高い。それもありこういった省の大きな都市にテクノロジー地域を作りそこに移転するということをどんどんやってます。成都はそんなひとつです。実際若手エンジニアと会いましたが彼らの多くは元々成都エリアで育ち学校を卒業して上海、北京エリアで働いていたが戻ってきたと言ってました。物価が安く家(アパート)を持つことができるからだそうです。あと共働きが基本の中国では両親に子供を見てもらう(孫の世話)も大きな要因です。カップルの一人が上海出身ならともかく、でもなければ地元に戻るのは色々と良い面もあるそうですよ。家は確かに上海界隈だと東京とさほど変わらない値段しますから若いエンジニアには高値の花になりつつあります。

日本は更なる一極集中(東京)が進んでいますね。大阪と東京を比較しても大阪では電車で座ることができますが東京は始発でもない限り難しい。。。人口比と言うか、圏内での人の移動も東京圏と’大阪、名古屋圏ではずいぶんと違う。東京圏は奥多摩あたりまで行けば違うのでしょうがそうでなければ人が移動しています。つまり経済活動があるということですね。知られているかどうか、カリフォルニアの経済力(GDP)はUKに匹敵します(つまり世界5位くらい)。東京は大体15位です(関東圏だと10位以内に入ります)。東京だけで大阪と愛知よりまだ多い(大体大阪、愛知の3倍あります)。中国も一極集中はあるものの、巨大人口を抱える国なこと人口一千万クラスの都市がそれこそ沢山あります(成都はそこまで大きくない)。そんな都市にどんどんテクノロジーセンターをつくっているのです。北京近郊の天津にはスーパーコンピュータの施設があります。実はそこも顧客だったので行ったことがありますがその周りにそれこそ沢山の企業、官の企業に交じってベンチャーが軒を並べていました。似たような会社がごろごろと言うのが中国の特徴です。誰が競争に勝つか、ですね。 

日本は人口を考えてもさらに一極集中が進むと思いますが中国、そしてアメリカもですがこれからはより広がっていくと思います。 アメリカでは以前に書いたAustin,を筆頭に数々の地にテクノロジーセンターが広がってる。中国はそれこそ竹の子のように。 

まだ拡大(人口も含め)している国同士の争い(米中)が激しくなっていますが拡大が続く限りその争い(競争だったらいいんですが最近は政治もからみ争いになっている)続くでしょうね。

さてそんな成都ですが、四川なので“辛い”料理がメインですが美味しいですよ。以前も少し写真を添えましたが以下に夕食時にぶらぶらしたエリアの写真を添付します。成都までくるとお昼も時間をかけて食する人も多いようで私たちも昼食に2時間はかけました。上海ではほとんど食べないか、食べても15分(大抵ヌードル)だったことを思うと時間が”中国悠久の流れ”だ、と思ったことを思いだします。四川省にはYOUTUBERとしてととても知られた人もいます。私も好きで彼女のビデオだけはSubscribeしています。映像は田舎部ですが自然が豊富なことがわかります。中国悠久の流れ、上海にいると感じることはなかったですが成都あたりまで出向くとまだまだ時間がゆっくりとしているように思います(でもいつまでだろう?)。

昼食。2時間はいた(もっとだったかも)。とにかくゆっくりでした。
食べるところばっかりでした。
辛い

San Diego

Austin と並んでよく行きました。San Diegoへの出張は基本的に日帰りです。飛行機でわずか70分ですからね。ただスケジュールはきつかった。朝4時ごろには起床。フライトは大体7時前のに乗ります。とても混んでいるのですよ、それでも。満席。サウスウエストを使いましたがここは普通のチケットだとチェックインの時間で搭乗の順序が決まるのです。A,B,CとあるのですがAの60くらいまでになると好みの席は確保できます(座席は指定されていません)。24時間前にチェックイン(オンライン)がオープンするので皆アプリをインストールして時間がきたらチェックイン。でもついつい忘れる。そこで何回かに一度はちょっとだけ高いチケットを買ってました。この場合A15までは確定(いつチェックインしても大体A15ぐらいでした)。7時半ごろにはサンディエゴ空港につきます。現地にセールスがいるので待ち合わせは最初に行く顧客オフィス近くのスターバックスと決まっていました。そこまでタクシーで向かいますがちょうどラッシュアワーですから少なくとも60分は見ておく必要があるのです。スターバックスでやっと朝の食事をして9時にはもう最初のMeeting。日帰りなので帰りは大体6時ごろの便でした。サウスウエストを使ったことがある人はご存じだと思いますがここはとにかくよく飛行機が遅れます。短い区間をいくつも経由してくるからなんですが当初予定していたフライトの次のフライトが先に到着することだってあります。そんな場合ゲートで席に空きがある限り変更してくれますが私はどのフライトが遅れがちかとか知っていたので遅れる確率の高いスケジュールのフライトは基本的に避けていました。ビジネス客はそういったことを経験で知っているのです。そこまで事前チェックするようになれば、このブログを読んでいるあなたも立派なビジネスマン、ビジネスウーマン!空港でずっと待っていることほどつまらないことはないですからね。

San DiegoでのMeetingは早めに始めて終わりも早め、3時までMeetingをしたことはほとんどありません。なぜか? 早めに終えてそれからいつもビーチ沿いにあるポセイドンというバー、グリルで遅めの昼食をしたからです。北カリフォルニアは水温が冷たく泳ぐのはな~となりますが南は暖か(だそうです)。だからでしょうか?ビーチには水着姿を沢山みかけますしビーチ沿いのバーですからそんな客が多い。同僚(独身の男性)はそのポセイドンをとても気に入っていましたが理由はおっさしができるでしょう。

サンディエゴは有名なところでは世界的に著名な動物園(とにかく広い)、シーワルド、レゴランド(ちょっと離れていますが)、サハリといったアトラクション、そしてトム クルーズのトップガンで一躍名を知られましたが合衆国海軍の大きな基地がある州で2番目に大きな都市です。メキシコ国境まですぐ。アトラクションの多いところなので休暇で3度は行ったと思います。車で行くのですがLA辺りで一泊して2日かけて行くのが普通かな?若い人は一日で着くのでしょうけれどLAから南は交通渋滞がひどく体力がないと一日でというのはきついと思います。

サファリ

ここはQualcommを筆頭に半導体関連の会社も多いのです。Qualcommは20年以上前に働くチャンスがありましたが引っ越しが必要で行きませんでした。その後シリコンバレーにもオフィスを開きましたからあの時働くのでしたかね? そうすれば今頃はもうハワイのビーチでのんびり。。。なのですが。。。 とこんなことをいうとそんなのばかりです。ボストンにいたころIntelのインタビューを受けましたがアリゾナ勤務でのオファーになった(チームがアリゾナに集約されることになったとかで。。。)、やっぱりアリゾナはなあと行かなかったのですが行っていればやはり今頃はハワイのビーチです。そんなのばかりですがその時その道を選択しなかったのだから悔やんだことはありません (おっと嘘になるかな?ベンチャー企業でなんどもサラリーカットになった時、一度悔やんだかな)。

日本からの直行便が今は出ているはず。就航したり辞めたりと何度かあったはずです。LAから車で行けるのと日系企業が沢山あるわけはないので需要が不安定だったのかな?よくはわかりませんが日系スーパーも沢山あるから日本人も多く在住しているはずです。基地の町でもありますからね(海軍とMarine)。

ちょっと外れるとラホヤという町に出ますがここはハリウッドの映画俳優が避暑地としていた(いる)町としても有名です。それがためでしょうか? フェラーリのディーラーがあったりしますよ。高級車の店も多い。もう少しはなれてカールスバッドにまで出るとレゴランドがあります。 

旅ブログではないのでサンディエゴについて詳しくは旅ブログを見てくださいね。

じゃあ、何書くねん? ですが、ここサンディエゴは基地もあるからでしょうか?シリコンバレーがソフトウエア、シリコン(半導体)が主だった(今はずいぶん様変わりですが)のに対してワイヤレス(無線系の通信)に関するテクノロジーの企業が多いところです。Qualcommがその代表になりますがベンチャーも含めるとほんとうに沢山ありますよ。シリコンバレーのように大きな会社、例えばQualcommでずっと開発をしてきたエンジニアたちがベンチャー企業を起こす、それをまた大きな会社が買収する(いや、当初は投資も)というリサイクル・サイクルを繰り返すのです。そんなサイクルでテクノロジービジネスは成り立っていると言えるでしょうか。例えていうならSONYでやってきたエンジニアたちが会社を創立。その会社を東芝が買収(ソニーでも良いんですが)する。 こんな構図ですね。ずっとその企業でやっていくエンジニア(マネージャ)もいればベンチャーを興す人もいる。私がサンディエゴで行っていたのはQualcommはもちろんありますがそういったベンチャーが多かった。何社も訪れていますから”成功するか、しないか”は大体最初の2度目くらいのミーティングで分かりました。成功するかしないか、アイデアはもちろんですがエンジニアの質とそのアイデアのタイミングです。タイミングはとても大切で私などから見ても”へ?”と思うようなアイデアでもタイミング次第でビジネスになりすからね。このタイミングを見極めることが一番大切なんだろうと思います。あとはどんなアイデアかを私のようなエンジニアリングに携わる者が理解できないようなアイデアは成功しないように思います。なぜならそのアイデアを売り込むにしてもまずその話を聞くのは同じエンジニアなことが多いからです。ベンチャー投資家は技術的なことよくわかっている人もいますし。もっともよくわからないで”有名な人”が軒を連ねていたらとりあえず投資、いまの流行だからとりあえず投資みたいなこともあります。 今そういったので言えばAIでしょうね。いくつもの会社行きましたが60年代、70年代が旬だったような有名な人が絡んでいるだけで大きな資金を得ているような会社にいくつも出会いました。最初のミーティングで”何がしたいのか”さっぱりわからなかった会社もありますがそんな会社はもう今は存続しません。少なくとも同じ領域に携わるエンジニアが理解できないというのはそれがとんでもなく漸進なのか、ガラクタなのかのどちらかなことが多い。 ただ、エンジニアの中には説明がものすごく下手な人もいます。ちなみに私はとても上手だと思います(自己自慢)。そんな場合、成功するためには説明ができるエンジニアをチームに入れることだ思います。説明ができないがとんでもなくすごいエンジニアは設計に専念させる。ただね、説明が上手なだけじゃだめですよ、もちろん。

軍の町ですからこんな景色も。トップガンの映画で知られますがコロナドには海軍の特殊部隊の訓練所があることでもしられます。これも映画になってますよ。軍というと何か恐ろしいようなイメージを持つかもしれませんが、私がみるところ現在のアメリカの指導者の中では軍人(将軍、現役と退役)が一番まとも、いや尊敬できる人物が多いように思います。それだけいわゆるシビリアンに人材がいない(その最悪の例が今のホワイトハウスの主。不動産とテレビのリアリティショウをやってきて金儲と女性だけを追いかけていたような人物にリードさせようと選んだ国民に全責任はあります)。軍は外部から人材を連れてくるのではなく徹底的に内部で人材育成することで知られます。元国務大臣のパウエル将軍を挙げる間もなく人材が豊富です。政治には基本的にかかわらないのが軍人ですから政治的に中立なことが多いですが(そうならないキャリアを積んだ方もいますが、パウエル将軍のように)、ここでれいとして挙げるようなスピーチをできるのは今や軍関係者しかいないのかと思うと残念です。 以下YOUTUBEのリンクを付けますがどちらも素晴らしいスピーチです。https://www.youtube.com/watch?v=pxBQLFLei70   UTでのスピーチです。これを見た後ですぐに著書を買って読みました。若い人にとくにお薦めです。著書はまだ日本語訳がでていませんがスピーチの内容を基に書かれたものです。 もう一つはhttps://www.youtube.com/watch?v=mU0RfhvYN8s。コロラドスプリングスにある空軍の士官学校でのスピーチです。軍がいかにヘイトスピーチにたいして迅速に行動しているかを垣間見ることができます。こんなスピーチを指導者はするんです。退役された将軍や軍指導者の著書を読むといかに軍が人材育成、チームワーク(戦場に行ったら自分の命を預けるわけですからある意味本当に真剣)等についてトレーニングと教育をしていることがわかります。 

海軍の町。艦船のそばまで行けるのがアメリカ
コロナドビーチ。サンディエゴそばのまち。橋を渡って太平洋側にでます。

こんな書籍を軍の元将校が書いていることが多いです。原著(英語)で読みましたがおそらく日本語訳は原著に充実だろうと思います。リーダーシップの本だとか若い時にどんなことをすると良いのかなどで悩むようなときこういった実務で鍛えられた方の書かれた書籍はいわゆるコンサルタント会社(例えばマッキンゼーなど)でコンサルタントをされてきただけの方の書籍より面白くかつためになると思います。コンサルタントって、責任はないのです。責任ないのでなんでも書けるのですが理想的過ぎたり、実務に使えないような提案だったりで知識として参考にはなるけれど。。。といったケースが多かったりします。その点、将校は全責任を負っていますから迫力がちがうのをよく発見します。 アマゾンのリンク https://www.amazon.co.jp/米海軍で屈指の潜水艦艦長による「最強組織」の作り方-L・デビッド・マルケ/dp/4492045325/ref=sr_1_3?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=turn+ship+around&qid=1597434228&sr=8-3

セキュリティー

日本はセキュリティーが緩い国ですよ。アメリカも実生活では甘いほうかもしれないです、それに甘くなってきていると思います。ご存じのように銃の国で、しかも州によってはほとんどの場所に銃を携帯することができますからね。カリフォルニアはまだ厳しいほうですが共和党の牙城ともいえるいわゆる”アメリカ”は銃だらけとも言えます。私はそんなところにはいかないので実生活で銃とかかわりあったことはこの30+年の間ありませんが。

日本ほどでないにしてもアメリカ、セキュリティー甘いと言えるかな。一番の例が出国時です。どの国、たとえそれがEU諸国であっても出国の際には国の係官がパスポートをチェックするのですがアメリカはそれがない。もちろん搭乗ゲートに入るのに身元チェック(IDと搭乗券の名前がマッチするかのチェック)は係官がしますがいわゆるパスポートチェックは入国時だけです。”出ていくやつをチェックして何になるんだ?”と言う発想なのでしょうか、おそらくは。EUはいったんEU圏に入るとそれ以降どの国に行ってもパスポートチェックはないですがEU圏を離れる際にパスポートチェックはあります(出国のスタンプをもらう)。 日本も出入国どちらもチェックしますね。中国は入国も大変ですね。まず到着したらセルフキオスクでパスポートと指紋の登録をします(外国人だけ)。年に何度も行きましたから同じ年に2度目だった場合パスポートを読み取ったとたん指紋はしなくてよいと表示がでたので、”ああ、以前やってきたことはもう知ってるんだ”と思いました。セルフを通ってそれから係官のチェックになりますが、もう一度指紋を押収され写真もとります。2度するんですね。スーツケースを受け取って待ち合わせの場所に出ていくわけですが持ち物はXrayチェックされますよ。海外のスーツケース検査なんか信じるものか~ってなところでしょうね。国内線の場合ここまでしないからやはり疑っているのでしょうかね?と大変です。

いったん国に入ってもチェックだらけなのは私の知る限り中国だけです。 イスラエルのセキュリティーは厳しいと聞いていましたが私の経験だけでいうと、大きなショッピング施設などに入る際にカバンをチェックされましたが(爆弾が入っていないかとなね)それくらいなところでした。中国はカバンチェックは駅という駅、空港(空港ビルに入るにも)などで必ずされます。北京ではあるエリア、例えば故宮のあるエリアに入るにもカバンをチェックしますから以前も書きましたが私は仕事を離れたら手ぶらを決めていました。なにも持たない、女性には難しいですね。

北京は都市に入るのも大変です。一度電車(中国版新幹線)で北京に入りましたが北京行の電車の場合、新幹線の駅は入場するのにカバンとIDチェックをまず受けますが(外国人の場合パスポートです。スキャンしてすぐに照会するのでセキュリティーは形だけではないです)、乗車口に入る前に再度パスポートとカバンをチェックされました(プラットフォームに入る前)。もちろん長距離電車になりますから乗車券を受け取るにもIDが必要です。誰が乗車しているかは全部知られております。チケットには名前が書いてあります。アップグレードしたチケットは外国人(私)には手ごろな値段になるのでいつもアップグレードしましたが一度だけ車内でチケットとIDの照合をされた経験もあります。北京について今度は駅から出る前に再度カバンチェック(スーツケース)。何度チェックするねん? なのですがチェックだらけですよ。パスポートも常にチェックされます。カバンは持たなくともパスポートは必ずもっていました、これなしでは怖い。ヨーロッパなどではパスポートをホテルに預けたりしました(アメリカの運転免許証をID替わりに財布に入れていた)。が中国ではそんなことをするときっと大変なことになるだろうと、あのセキュリティー体制をみると思いますよ。そうそう中国はホテルに泊まるとパスポートチェックだけでなく写真も撮りますよ。本当、チェックだらけですね。もう慣れましたが好きではないです。

ここまでなら旅ブログでもおそらく紹介が色々とあってあらかたご存じでしょう。旅ブログはもっと詳しいと思いますよ。だからわたしがこのブログで書くのは一般企業のセキュリティーです。 

韓国、中国の大きな会社、例を挙げてしまうと Huawei, Samsung, SK-Hynix,などを仕事で訪れたことがある方もいると思いますので以下は”知ってるよ”となるかも知れないですね。これらの会社では 

ー ラップトップコンピュータの持ち入れはできないか、あらかじめ登録する必要があることが多い。

ー 持ち込めたとしてもすべての入力ポート(USBなど)やカメラ部位はシールを張られる(出るときにチェックされるのではがしたりしたら大変なことになります。最悪取り上げて返してくれません、ITが厳重にチェックを終えるまで)。 ラップトップのシリアルナンバーも控えられチェックされる。スワップなどできませんしたがって事前登録が必要なケースでこちらの都合で別のラップトップを持っていったら持ち込み許可はでません。あきらめ~。そうそう、メモリやSSDを交換できないようにシールを貼るしSSDドライブのシリアル番号も記録されますよ。とてつもなく厳重ですね。

ー携帯電話の持ち込みはゆるされないこともある。ゆるされる場合やはりカメラ部分などはシールをはります。持ち込んだ経験は一度もありません。

ーカバンはロッカーに入れます。カバンの持ち込みは不可。

ーノートとペンを持ち込むことは許可されない会社もあります。許可がある場合、帰り際にセキュリティーが調べます(何か隠していないか。。。)紙は持ち出せない会社が多いです、たとえ従業員であっても ダメ というところもあります。

ー車でやってきた場合基本的には外部にある訪問専用の場所に停めますが、沢山の機材を持っていく必要があるなどで内部に停める場合、トランクなどをチェックされます(出入りどちらも)。車の下も調べます。

ーパスポートチェックは当たり前。パスポートのコピーを撮られたケースもあります。事前に登録した訪問客のみを受け付けることもありますので人物照会も実に厳しくチェックされます。

などなど 枚挙にいとまがありません。もちろんX-rayチェックもありますよ。メタル類は空港と同じようにポケットから出します。カバンは従業員だけが持って入りますが従業員もこのセキュリティーを通るのは同じです。IDもバッジですが行いますが中国では今や顔認識が広まっています。見ているとあっという間に認識してゲートが開きました。

これらの中でもラップトップが一番困りました。というのは最近の新しい仕様のラップトップはUSB端子で電源、USBでDISPLAYにつなぐようになっているものが多いのです。そうなるとその端子、全部シールされているので電源はとれない、プロジェクタには繋げない、、、という事態になります。したがって古いラップトップに資料などを全部コピーして持っていきました。現地に同僚がいる場合現地でコピー。いない場合は出張のさいしてそんなラップトップの調達からはじまります。そのラップトップがたまたま稼働しない、なんてこともあり、その機種を事前登録してあった場合もうお手上げ。持ち込めないですから。臨機応変など全く期待できません。リストにない、の一点張りでだめ。仕方ないのでラップトップなしでミーティングをするといった情けない事態になったことが何度もありました。ちなみにセキュリティーは会社の社員でなく契約会社な場合もあり従業員に対してもとても厳しいです。容赦しない、ってところですね。

こんなことになるからでしょうか? 会社によってはミーティングだけできる場所、普通はいわゆるキャンパスの外にあるビルの1階部分)をもつところもありました。この場合多少セキュリティーはあまくなりラップトップにシールなどはされません。ミーティングに出てくる顧客サイドの人たちはみな手ぶらできます。ラップトップもノートも持ってきません。白板などもないので何も書くこともできないですから。まさしく持ち込んだラップトップだけ~という世界ですね。

こういった会社は従業員も細かくチェックしていますよ。まずラップトップは使っていないし、デスクにあるコンピュータにUSB端子もありません。 出入りに際してはXrayは通るし携帯電話持ち込めますがカメラ部分はシールが貼ってあります。大変ですね。 また、まことしやかに言われているのが従業員のタイプした内容はすべて記録されていてその従業員が退職する際ITがそれまでの膨大なタイプの記録を調べ上げるとか。。。本当かどうか知りませんよ。

ここまでするのはすべていわゆる産業スパイ対策と従業員による情報のリークを防ぐためですね。日本で唯一、といってもとても緩いですがこのようなセキュリティーを置かれている会社はというと以前産業スパイ(といっても実は内部犯行でしたが)に情報をリークされた企業だけでしょう(実名をあげるのは控えておきます)。それでも全然緩いです。かの地の企業のセキュリティーは甘くない。入るときも出るときもそれこそ徹底的にチェックしますからね。

はるか昔ボストンで働いていたころ、私のいた会社も時折抜き打ちで出口チェックをしていました。セキュリティーがカバンをチェックするのですが”メタル”をチェックしていたのです。価値あるものがあるので(例えば私がかかわっていた半導体チップ。一1000ドルくらい(ひとつ))。なんでもメタルはだめ。。。とか言ってましたね。 なんだ、盗人をさがしているのか? なのですが、実際それが目的だったようです。 チップって小さいですが高く売れますからね。

イスラエルについて書いたのですが仕事で行くような場合招待状をイスラエルにある会社(子会社)から送っておいてもらいました。同じものが関係官庁にも送られているそうです。入国に際してそれがあるか、ないかで時間が違います。私は大体5分もあれば係官を通過できましたが待っている間にみていると人によっては30分以上もかかるようなケースがありました。ちなみに国柄を考慮してなのでしょうね、パスポートにスタンプはしません。入国時のカードをくれます。イスラエルのスタンプがあるとアラブ諸国に入国できないからだとかどうとか聞きました。帰国時もその招待状が必要です。航空券を受けとる前に係官の質問を受けますが(どこにいた、何をしていた、などなど)、良く知られた会社の照会状を持っているとそれを確認する作業を済ませるとすんなりチケットカウンターにたどり着けました。聞いたところでは私の行動は全部もう知られているとかいないとか。。。 なんかスパイ映画のようですね。 驚いたことに私はペットボトルを搭乗口にまでもっていくことができました。バックグラウンドチェックで不審者か、信用できるかを厳密に判断しているからだ、とイスラエルにいる同僚は言っていましたがこれには驚きました。

と以上セキュリティーに関する経験でした。日本は安全な国です。 まあ、アメリカも甘いから同じように安全なのでしょう。アメリカは行くところさえ気を付ければ安全と言えます。安全だが、甘い。。。

最後に以上の例は基本的に大会社です。中国での訪問先、ほとんどがベンチャー企業でしたが今度は全くセキュリティーが無い。。。 貸しビルに入っていることが多いですからだれか入り口にいますがな~んにも言われません。いったん顧客のオフィスに入っても、まるで従業員のようなごとく、どこをウロウロしていても誰にも止められない。なんでも話しますしね。シリコンバレーのベンチャーと全く同じような感じです。このギャップはなんだ?と時々思いました。韓国はわかりません。ベンチャー企業というのが存在するのかな?と思うほどに財閥系の企業しかないですから。財閥系の企業はどこもセキュリティーが厳しい(わけでもR&Dに近い程厳しくなるようでした)。ベンチャー企業に行った経験はしたがって一度もないのです。

ところ違えば全然違う。 これなど自分で経験するしかよくわからないですね。ひどいことにはなっていないので、つまり係官にどこかに連れていかれたりSSDを押収されたりとか、ただチェックされるだけでもう慣れっこにはなっていますがうっかりするとミーティングに参加できないなんて事態にもなるのですから抜かりないようにしていました。それでもトラブルには何度も遭遇しましたよ。というお話でした。

写真は北京 天安門広場。 セキュリティーを通過しないと一帯にははいれません。

これはイスラエル入国時のカード(青)と出国時のカード(ピンク)の一部。パスポートにスタンプはしません。

夢からビジョンへ

”いつでも夢を”という映画とその主題歌知っていますか? これは吉永小百合さんの青春映画のひとつです、と言って”みたことがある”なら、あなたは”昭和生まれ”間違いなしかな? とても良い映画ですよ、今見ても。もっとも私は昭和生まれですがこの映画が上映されたときはまだ赤子でしたから初めて見たのはそれから15,6年は経った後です。あのころ京都市の祇園界隈に祇園会館という映画館があった(今はありません)のですがそこで3本500円くらいで古い映画の上映がされていたのです。そこでこの映画を見たのをはっきりと覚えています。 以来、吉永小百合さんのファンですから。 私の世代はというとキャンディーズ、山口百恵さん(歌に恵まれた方ですね)や松田聖子の時代ですがそれでも小百合さんは人気がありました。 私は吉永さんは別格で薬師丸ひろ子さんの映画は欠かさず見たファンの一人です。この映画の主題歌、インターネットで見つけることは簡単です。 例えばここ。https://www.youtube.com/watch?v=_9pewaS3Dhs&t=30s

吉永さんのインタビューを後年見たことがありますが、その中で ”よく走ったわね”とおっしゃっておられました。ほんとうあの当時の映画をみると吉永さん、いつも共演の浜田さんと一緒にとにかくよく走っています。 それはまるで昭和時代の”忙しくて”仕方がなかったころをそのまま表すかのように。昭和は走って忙しかったのですよ。子供のころの話をするとちょっと馬鹿にされますが全部覚えているんですね、私も確かに走っていたかな(昭和も半分が過ぎて生まれ育ったわけですが)。

ところで先日書いたブログで紹介したアーノルドシュワルツェネッガーさんのスピーチで彼はビジョンを持てと言っていましたがDream (夢)とは言っていなかった。ここは重要だと思うのですね。 夢を実現するにはビジョンが必要。ビジョンは彼が言っておられるように、そして少し私も書きましたが非常に具体的でかつ頭にこびりつくものなのです(だそうです、というほうがより正確)。”夢だけで終わらせない、実現するんだ”、と私も含めよく人は言いますが終わらせるか、終わらせないかの違いはこの”ビジョン”を持つかどうかに掛かっていると思います(経験でも)。そして、色々ときいたところではビジョンを焼き付けるのに一番適したやり方は 朝の瞑想 だそうです。 5分間の瞑想で良いんだそうです。 そして瞑想はやり方があるそうです。本当に色々と試しましたが未だに瞑想できたという実感はありません。それが理由でしょうね、 未だにビジョンが乏しい私は成功(幸せ)から程遠いところにいる。 が朝起きてベッドに座って瞑想の恰好だけはいまでも続けています。いつかは悟りを開き瞑想できるようになるかなと。。。

Denzel Washington さんの卒業式におけるスピーチ。 ”夢とゴール”と言っておられますがこれを”Vision”と置き換えるとアーノルドさんのVisionと同様になるはずです。これ、良いスピーチですね。彼の生い立ちご存じですか?

という紹介でした。

ついでに書くと、時々私の経験を話すと、ほぼ必ず質問されたのが、”寂しくなかったですか?”です。30年前のボストンは日本からは遠かったし社内で日本語を聞くことは皆無でしたからね。でもこれは愚問と言いたい。そりゃ寂しくなることは幾度もありましたから。ボストンは冬吹雪で荒れることがあるのです。冬暗くなって帰宅する時に会社の駐車場で一度ロックアウト(車の鍵を車内に残してロックしてしまった)ことがあります。ちょうど吹雪が始まって雪がどんどん降ってくるんです。オフィスにもどってセキュリティーと話をして、こんな場合消防が助けてくれるということで電話して来てもらいました。色々とツールを持ってきましたが中々それでもドアは開かない。寒い中二人で奮闘しましたが”ああ、もういやだ”とあの時思いましたね (帰る(日本に帰るってことです)と思ったのをよく覚えています。)後日談をかくなら、ボストンの駐車場でもロックアウトしたことがあるのですが、駐車場の係員の若い男性、ペラペラの板のようなものを窓のところに差し込んだかと思うと10秒もぜずに開錠しましたよ。初めて見ましたが彼にかかったら車上泥棒はお手の物ですね。あの吹雪の中一時間ほども奮闘したのは何だったんだ?と思いましたから。 

あの時代はインターネットは無いに等しく、もちろんGoogle、Facebook,、YouTubeなどはありません。 IPHONEもないですよ。 EMAILは一般ではまだ普及していなかった。私はコンピュータの会社にいたのでEMAILは有りましたが社内使用以外誰に書くねん?でしたし。 そうそうAMAZONもありません。今からするともう考えられないような時代だそうです、確かにね。 DVDもなかったのですよ。ようやくVideo CDというのが出てくるころでした。 CDはありましたよ。CDは私が大学生(3,4年生ごろ)出てきた媒体です。今はもうCDはあまり見かけなくなりましたけれどね。まだVHSビデオの時代でWalkmanもまだあった、そんなころですね。日本のVHSを何本か持っていたのでそれを見てましたね。その中にはもちろん吉永小百合さんの青春ものの映画もありました。キューポラのある町 という映画をVHSで探しましたがなかったのを覚えています。 いまYOUTUBEで探しても出てこないです(フルには)。これは一度も見たことがないのでぜひいずれ見たい。それ以外には映像、ビデオはあまり覚えていませんが音楽はよく聴きました。中でも一番聞いたのはショパンのノクターン G Major と E-Flat Major 演奏はルービンシュタインさん(に限ります)。おそらく30年のUS生活で一番きいたでしょう、今でも一番好きなピアノ曲です。あまり音楽を聴くほうではなかったですがあの頃は良く聴いていました。

とはいえ、まあ、なんとかなるものです。 若い時は特に。それにいまはFacebookもあるし。でもね、何もなかったからよかったのかもしれないです。 なんだかんだで忙しくしていましたから。 ハーバード大学が夜間のコースを開いていたので、オンラインなどない時代ですからキャンパスによく行っていました。ハーバードで夜間のクラスを取り始めて会社近郊(田舎)からボストン近郊の大きな家で部屋を借りました。大家にあたる人はビジネスウーマンでほとんど家を空けていたので彼女の猫の世話をすることが条件でした。3匹のシャム猫(マシュマロ、ファッジ、ハニーバーン)とてもなついたんですよ。以前のブログでペットについて書いてますがあの3匹を世話したので動物が生活にいても平気になったのだと思います。ボストンシンフォニー(小沢征爾さんで知られますね)が火曜日(木曜だったかな?)の昼にリハーサルをしていましたが一般公開していましたので時々行ってました、会社を早くでて。自宅とした大家さんのところから電車(Green Line)で行くことができ便利でした。元々クラシックを好んでいましたがずいぶん色んな曲をリハーサルで聴きました。夏はボストンポップスがボストンにいて交響楽団はタングルウッド(ボストンから車で2時間ぐらいかな)に移りそこでコンサートがありました。夏は4回経験していますが毎年一度は行きましたね。良いところです。ボストンポップスの演奏も聞きにいきましたよ。

今はBLOGを書いてますが普段は仕事以外でコンピュータを使うことはほとんどしません。 YOUTUBEもほとんど見ないしTWITTERもしません。ボストン時代に触れてこなかったからでしょうね。 それより本を読むほうが多いです。書店は週末毎行っていました。カフェのついている書店が多かったのでそこで何時間も過ごしたのをよく覚えています。そうそう、冬は寒く雪が降ります。会社から一番近いスキー場まで車で30分程度だったかな?毎週水曜日は会社のスキーイベントがありいつも行っていました。滑るというより食べるためでした。食事が無料で出たのです。

なんだか表題とは違い私のボストン時代の回顧録みたいになってしまいました。

千疋屋のメロン。 昨年日本で買いました。千疋屋のメロンと言えば 贈ってもらうことが皆の夢でしょうか? 贈ってもらえないから自分で買って食べました。美味しかったです。贈ってもらうともっと美味しいのかな?

Boston 近郊。こんな緑だらけのところに住んでいたのです。下宿でしたが昔の家(サテライトで見ると建て替えられていた)、メイドの部屋が屋根裏にありそこを借りていた。トイレ、バスルーム、キッチンと全部そろっていてドアを閉めると完全な住居区域になります。ここからBOSTONまで自転車でも40分程度、電車もありましたがT(地下鉄)Green LineのDライン。このラインはケネディー家で知られたBrooklineなどを通ります。Dライン沿いはとても裕福な街が並んでいた。隣町にWellesleyがありますがここは世界的にも知られたWellesley College(女子大)があります。とても高い塀があったはずで中には入れなかったはず。。。この辺り今でも歩いたり運転しても迷子になることはないと思います。

失敗 と 仲間

失敗を恐れるな、若いうちは沢山失敗をしろ、失敗が将来の糧になる。。。なんて聞いたことないですか?会社で上司、先輩(経験やランクは上の同僚・先輩は日本的。。。)、はたまたより身近な友人、先生、家族(両親や叔父、叔母など)がアドバイスとしてくれるかもしれない。

でもね、そういったアドバイスをくれる人、”あなたたちは失敗をしてきたの?”ときいてごらんなさい。私の予想、ほとんどが”失敗を恐れてやってはいない”はずです。私はよく言うのですが”言うのはただ。いまや言葉に責任を持つ”人は政治家や官僚、いや、会社のトップをみてもあまり見受けないでしょう?だから”失敗を恐れるな”、実は”失敗したら責任は全部君が負うんだ”っていうことなのです。”若いうちは沢山失敗しろ”というのは”やってみろ、だめだったらその責任は私が負う”と言える人が使う言葉だったと私は思います。”頑張ってください。応援してます”ともよく言いますがこれは全然意味がない言葉だと思う。英語でいうグッドラックに近い。これ、言ってみれば、”バイバイ、またいつかね”とも取れるわけです。

失敗はやっぱりとても怖いです。沢山失敗しろといっても一度でも凹んでしまいます、実際には。事業など一度の失敗が命取りになりその後中々立ち直れないのは普通のことです。”かけ”になるようなことをしたくはないのは誰も同じ(だから私を含め大多数は“勤めているわけ”です)。

以前のブログで”チャンスは逃すな”、アーノルドシュワルツェネッガーさんのスピーチにある”辞めたほうがいいよ”といった否定的な言葉に耳を傾けるな、などと書いておいて”おいおい、今度は失敗について書くのか?”と”言ってることが違うじゃないか?”と思うかもしれないですね。

失敗を想定して物事を始めよ、といっているのでもないです。やるからには成功する、やりとげる、その意志は必ず必要です。でも、”軌道修正する”柔軟さも必要なのです。得てしていったん始めるとこの”軌道修正”ができないことが多いです。もしくは”軌道修正”ばかりしている。どちらも成功には程遠い、と思います。少なくとも私は、これまでの人生、仕事 そうだった。かたくなになって失敗した経験とちょっとなにかあっては”やり方がだめだ”とか、なんとか、かんとか自己理由をつけて辞めてしまったり、目標を変えたり。。。こんなのばっかり。 

コロコロとやり方を変えたり目標を変えたことは結局自分にとってどうでもよかったことなのでここでは”かたくなになって”軌道修正ができなかった場合での失敗を挙げています。これまで本当に沢山してきましたがその失敗のほとんどが”自分でやろう”としての失敗が多かった。前にブログにも書きましたが成功への一つの鍵として”仲間”がいるのです。前にもかきましたが同僚(友人)のような仲間もいれば、上司、部下、メンター(アドバイスをくれたり、愚痴を聞いてくれるような人)のような仲間もいるのですが、”迷惑になる”、”聞いてはもらえない”とか、色々と自分の中で理由を作って”これは自分でしないとだめになる”という思いが強くなることがあります。私は芸術家、作家といった職業ではないのでこういったその人個人が”勝負”といった人たちのことは全くの素人なのでここで書いていることが万人に通じることだとは言いませんが。よくあるのが”仲間を裏切れない”ではないでしょうか? 特にその仲間が友人だったり元の上司(恩人)だったりした場合気持ちとして難しくとても悩むことがありますね。

 その仲間について。

先のブログで昨年は元上司のお願い(誘いと書きたいが実際のところ何度もお願いをされた)でチェコにある小さな会社のコンサルタントをしていました。一昨年前ごろ勤めていた会社を彼は辞めさせられるような形で辞職していきました。これはUSではごく普通にみられることですが、CEOが新し部門長(副社長クラス)を雇った場合新しく来た人はそれまでの上位にいるマネジャを全部変えて自分が新たに雇うことで人事面で優位に立とうとする、その一環の中で起こった人事事件です。もちろん優秀な人だったので投資会社がそのチェコの会社に投資するにあたりボードメンバー(取締役会)と副社長、言ってみれば取締役にして執行役員でもある、として彼を雇ったのです。私はエンジニアだったので上の人事が変わろうが影響は受けないのですが新しく入ってきた私の”新しい上司”とはあまり馬が合わず(30年近いUSでの仕事で唯一馬が合わなかった)、転職を考えていた時でもあったのです。ちょうどそのころGAFAの一社にいた元同僚がエンジニアのポジションを紹介してくれ20年ぶり(?)にジョブインタビュー(面接)を受けていました。この会社面接の厳しいことでしられ、都合13人と技術面接をしましたがオファーを受けることができました。ちょうどそのころです、その元上司に”手伝ってくれ”と頼まれたのは。普通に考えるとGAFAの一社でしょう。給与面、待遇面等で雲泥の差がありましたから。でもたっての頼みで且つ、R&Dエンジニアではなくこれまで通りマーケティングに属するエンジニアということで、R&Dに戻れるかな、といった不安もあったので家族には”うまくいったときの絵空事になるような話だけ”してGAFAのオファーを取らなかった。ちなみに今はGAFAの一社にいますがべつの会社です。GAFAのうち3社インタビューの経験があり2社はパスした。。。

でも今はその会社ではもう働いでいません。入って分かったことですが製品が大学生の卒業研究程度のものでとてもじゃないが競争力がないことが分かった。詳しいことまでわかっていなかったその元上司と話し合い、とにかく今とりかかったUSでの大きな案件、これはデザインサービスで製品をうるというよりエンジニアを売るようなことだから何とかなるだろう、そのうえで小さなグループで中国市場に特化した製品を作ろうと早速”軌道修正”をしたのですが、先にも書いたことがありますがチェコ人は私たちにとって仲間にはなれなかった。やり始めたのですから何とかしようとしましたがどうにもならない。 USAの大きな商談を失ったあとはもう中国しかないと3週間に一度(つまり毎月)のように中国に行くようになりましたが競争はとても激しくとにかくあのスピードについていく必要があるのですがチェコのスピードは日本のスピードよりもまだ遅く完全に周回遅れな状態。

自分の自己修正の時が来たと悟り、元上司には悪かったのですが、以前顧客にしていたGAFAの一社が以前から一緒に仕事をしないか?と誘ってくれていたので形式だけ面接を受けた後入社しました。オファーをもらって”辞める”と言ったところ、”よく今まで働いていてくれたな。すぐ諦めて辞めるかと思った”と言ってくれたので”ほっと”したのを覚えています。私の失敗は私の上司はビジネスを見てきたが技術がわかる人ではなかった。技術者が大切なベンチャー企業に賭けるのだからエンジニア、エンジニアのトップと少なくともインタビューをしておくのだった。チェコだしても行くことはできたわけです。どんなメンバーでどんな製品(技術)なのか、見ておけばたとえ元上司の頼みとはいってもこの会社を手伝おうとはしなかったはずだからです。自分の失敗を何とかしようとあれこれ、本当に毎日ありとあらゆるコネクションを使って顧客訪問とその結果をR&Dチームに渡していましたがらちが明かず前に進めないでいましたから。軌道修正するタイミングだったのですね、私の仕事の軌道修正。結果、いまはR&D部門に戻っています。

失敗とわかったら軌道修正できるんだと覚えておく。 同時に頑固さも大切。こんなことを書いたので”軌道修正すればいいんだ”と安易に考えるのは良くないかな、でも。私はベンチャー企業に19年もいました(ほとんど創業時からのメンバーのひとり)。19年の最初の7年は紆余曲折の連続でした。給与カット30%、6%、2%を経験したので会社が買収されたときの給与はその時点で入社時の給与より少なかった。13年働いて下がる一方だったのですね。会社が買収されたときにいわゆるストックオプションが現金化されてカット分以上になりましたが給与カットが有る事に辞めていく同僚もずいぶんといました。他にチャンスは沢山ありましたからね。自分たちの技術と仲間を信じていたので”売れない理由は何だろう”ということでセールスと一緒に顧客を回りました。それが縁でR&Dからよりセールス側に移っていくことになったのですが”良い技術だ”という確信はあったのです。私自身のやり方を変えて貢献してみようとそんな軌道修正はしましたが”安易な”修正 (他社に移る)ではなかった。頑固だけだったのかもしれないですがね。実際かなり頑固な親爺ですから。偏屈者だそうです。これは母が私が若いころよく言ってました。私を一言で表すならこの表現が一番ぴったりです。

料理は失敗作だらけです。やり方を見ても、読んでも自分で試すと上出来のことは少ない。。。でもなんか好きになりあれこれ試しています。うまくいくとあっと言う間になくなるしそうでなけれは私が責任をもって食べています。責任を取るほうが未だに多い。。。

ウイーン

日本人はウイーンという。英語ではビエナですね。日本語はできるだけ現地語の町名で示しますが英語はそうしない例が多々あります。例えば プラハ。英語ではPrague (プラハではない)、 イタリアの町はもっとそういった例が多いですね。フィレンツェはフローレンスになりすし。ドイツ(大体ドイツというのはドイツ語からきていますね、英語ではGermanyだ)にもそんな町名があります。 

さてそのウイーン。チェコのBrnoという町に行くにはUSAからだとウイーン経由でタクシーと言うのが一番行きやすいのです。車で90分ほどになります。首都プラハからだと電車で3時間もかかります。車でも2時間ちょっと。というわけで2度行ったBrnoいずれも行きはウイーン経由でした。夕方着くので到着日をウイーンで過ごしたのでちょっとだけ町を見て回ることができました。出張ってそんなものなのです。まあ、これで独り身であれば前後に休みをとってもう少し見て回ることもできたのでしょうがそんな贅沢もあまりなく。。。 だた短い時間だけの滞在になるので見て回るということに関してはかなり貪欲になります。”足であるく”わけです。でもね、はっきりって全然見て回れなかった。。。 今度は出張でなくやってこようともうBrnoには戻らないであろうと分かっていた2度目のウイーンで私の行きたいところリストに入れておきました。

町は帝国時代の中心だったこともあり非常に裕福です。オーストリア人は基本的に裕福だと言います。人口の少ない西欧(東欧ではなく)は基本裕福ですがオーストリアも人口少ないですからね。以前、オーストリアは観光と銀行だけの国ではないと書きましたがそうはいっても観光と銀行(金融)は大きな比率を占めていると思います。観光客であふれていました。ANAが成田からの直帰便を出すというので至る所でその宣伝ポスターを見かけました。これまでなかったのかな? 

私はUSAから行くときはオーストリア航空を使っていました。LA経由になるので不便なのですが、この航空会社スターアライアンスのメンバーなのです。オーストリアにビジネスで行く人はやはり少ないのでしょうか、スターアライアンス Goldメンバーはほとんどいない(Unitedを使っていますがUnitedだとごろごろいます)。というわけで、いつも席がビジネスクラスにアップグレードできていたのです(航空会社の計らい)。オーストリア航空のビジネスクラスはシェフが搭乗していてステーキなどを機内で調理します。JAL、ANA、ビジネスクラスの食事とてもいいですがシェフの搭乗はなかったので私はオーストリア航空だけでの経験になりますが好みのステーキに感動します。それとフライトアテンダントはめっぽう親切で丁寧です。ヨーロッパの航空会社BAなど乗ったことがありますがオーストリア航空は私の経験でいうならとても良い(もっとも2度ともビジネスクラスになったためかな?)。

ヨーロッパの町は中心部(旧市街地)は石畳で道も古い、したがって幅細く曲がりくねっていることが多いですがウイーンも御多分にもれずそんなたたずまいです。教会が例によって中心部にあるのも同様。映画のシーンにもよく出てきますね。ただ映画等だと個々のお店などは映し出されないのでやはり自分で歩いてみるしか本当の雰囲気、場はわからないと思います。昨今のコロナウイルスのさなか、バーチャルなトラベル、VR (バーチャルリアリティ)を用いたトラベルというのが一部話題になりますがバーチャルなトラベル、私にはピンときません。YTUBEなどでもきれいな映像やYTUBERの映像を見ることもありますが、自分で見たのとは全然違う、という印象だけでした。例えば高級ブティックに並んでチョコレートのお店も沢山ありました。どこのヨーロッパにもある光景ですが映画のシーンで見たことは皆無だといえるでしょうか? ちなみにお土産にチョコを買ったのでいくつかお店に入りましたがアジア人だけ、と言えるようなお店もあれば全くいないお店もありました。皆情報を得て行っているのでしょうけれど、情報は見ておくが現地を自分で歩くということも楽しいですよ。私はオーストリアでしたが美味しいスイチョコの店を見つけて入りました(アジア人観光客はいなかった)。ちなみに片頭痛があるので私自身はチョコを食べません。もらったとしても(だれがくれるのかな?)、ずっと飾っておくことになるでしょう。チョコを最後に食べたのは片頭痛だと診断される前だからもう7年は経っていますよ。

夕食は観光客の入りそうにないようなレストランで食事をしました。中は私の3人組を除いてみなオーストリア人とおぼしき人たちでしたが活気はありました。一緒に行ったグループはいくらでもお酒が飲めるのでどんどん飲んでおりましたがウイーンは”高い”のです。ちょっと伸ばしてチェコに入ってしまえばビールはもう水のような値段で買えるのです。ほとんどのところで英語が通じたのでなんとかなりました。こういった場合、やはり英語が一番通じる確率があるのはわかります(もちろんドイツ語使えるともって良いです)。

全然紹介になっていませんね。私は自分で経験することを薦めています。あまり情報を持たないでいるほうが良いと思います。現地にやってきてからでも情報は入りますから。ただ、情報ではなく”教養”としてオーストリアならオーストリア、ウイーンなどについてあらかじめ知っておくと現地でツアーなどに入った時にとても役立ちます。なんとなくそうするとわかってくるのです、それが初めての土地でも。

ウイーンはこれまでいくつか写真を添付しているので新しい写真を添付しておきます。私は若いうちはとにかく外にでることを、30過ぎて初めて日本国外にでた遅咲きのトラベラーとして経験から薦めます。内向きになりつつある昨今の世界情勢ですがグローバル化の大きなうねりはコロナウイルスでも逆回転させることはできない、させてなるものか、と思います。