成都

日本語と中国語で発音がずいぶんことなる町です。中国語だと大体のところ”チェン デュ”と言った音でしょうか? 中国語は一つの漢字に一つの音が基本ですから一度日本人が知っている漢字の音を知れば書いてある中国語はだんだんと発音できるようになります。中国語の難しさは5つの基本的なイントネーション(上がる、下がる、下がって上がるなど)があることですね。それによって意味がずいぶんと変わってくるのです。でもね、中国人の友人に聞いたら話しているときは少しくらい外れてもコンテキストで理解できることも多いそうです、もっとも似たようなコンテキストだと誤って理解されるのでやはり音をしっかり覚えるに越したことはないです。

ここは四川省の都で上海から随分と西になります。パンダでとても有名でこんなYOUTUBEが人気です。https://www.youtube.com/watch?v=izxkKkG3kzI。残念ながら私は行くことができなかった。私の上司は行ったのですよ!彼は現地のセールスにパンダを見に行けるスケジュールを作ってもらったとかで。。。こちらは地獄のような中国スケジュールをこなしているなか、悠遊なスケジュールを組んでいたんですね(彼とは現地で会いましたが私は北京で顧客訪問がありましたが彼はそれがなかった。。。技術ミーティングは私一人のことが多かったのです)。そのセールス、今度はそんなスケジュールを作るから”と言っておりましたが退職(彼女が先に辞めた)でお流れ、そのうち私も辞めたのでもうチャンスはないかな?

成都まで旅行で行くことはあまりないのでは?と思います。パンダが好きでパンダを見る旅をしているのでしたら行くのかなと思いますがそうでもなければ中国の歴史を勉強しているとかを除くと少数ではないかと思います。歴史で言えばここは三国志の諸葛孔明などでも知られた地域で中国国内では観光地の一つになっているそうです。

はるばるこんなところまで行ったのはここにもハイテク企業団地が出来てきているからです。最近何かと話題はHuaweiも大きな施設を持っています。何事も巨大な中国でのこと、施設はやはり巨大です。道路整備もされていますがその道路からして幅広(ずいぶんと立ち退きさせたに決まっていますがね)。

以前も書きましたが上海、北京は”高い”んです。物価が高いのとそれに比例するように賃金が高い。それもありこういった省の大きな都市にテクノロジー地域を作りそこに移転するということをどんどんやってます。成都はそんなひとつです。実際若手エンジニアと会いましたが彼らの多くは元々成都エリアで育ち学校を卒業して上海、北京エリアで働いていたが戻ってきたと言ってました。物価が安く家(アパート)を持つことができるからだそうです。あと共働きが基本の中国では両親に子供を見てもらう(孫の世話)も大きな要因です。カップルの一人が上海出身ならともかく、でもなければ地元に戻るのは色々と良い面もあるそうですよ。家は確かに上海界隈だと東京とさほど変わらない値段しますから若いエンジニアには高値の花になりつつあります。

日本は更なる一極集中(東京)が進んでいますね。大阪と東京を比較しても大阪では電車で座ることができますが東京は始発でもない限り難しい。。。人口比と言うか、圏内での人の移動も東京圏と’大阪、名古屋圏ではずいぶんと違う。東京圏は奥多摩あたりまで行けば違うのでしょうがそうでなければ人が移動しています。つまり経済活動があるということですね。知られているかどうか、カリフォルニアの経済力(GDP)はUKに匹敵します(つまり世界5位くらい)。東京は大体15位です(関東圏だと10位以内に入ります)。東京だけで大阪と愛知よりまだ多い(大体大阪、愛知の3倍あります)。中国も一極集中はあるものの、巨大人口を抱える国なこと人口一千万クラスの都市がそれこそ沢山あります(成都はそこまで大きくない)。そんな都市にどんどんテクノロジーセンターをつくっているのです。北京近郊の天津にはスーパーコンピュータの施設があります。実はそこも顧客だったので行ったことがありますがその周りにそれこそ沢山の企業、官の企業に交じってベンチャーが軒を並べていました。似たような会社がごろごろと言うのが中国の特徴です。誰が競争に勝つか、ですね。 

日本は人口を考えてもさらに一極集中が進むと思いますが中国、そしてアメリカもですがこれからはより広がっていくと思います。 アメリカでは以前に書いたAustin,を筆頭に数々の地にテクノロジーセンターが広がってる。中国はそれこそ竹の子のように。 

まだ拡大(人口も含め)している国同士の争い(米中)が激しくなっていますが拡大が続く限りその争い(競争だったらいいんですが最近は政治もからみ争いになっている)続くでしょうね。

さてそんな成都ですが、四川なので“辛い”料理がメインですが美味しいですよ。以前も少し写真を添えましたが以下に夕食時にぶらぶらしたエリアの写真を添付します。成都までくるとお昼も時間をかけて食する人も多いようで私たちも昼食に2時間はかけました。上海ではほとんど食べないか、食べても15分(大抵ヌードル)だったことを思うと時間が”中国悠久の流れ”だ、と思ったことを思いだします。四川省にはYOUTUBERとしてととても知られた人もいます。私も好きで彼女のビデオだけはSubscribeしています。映像は田舎部ですが自然が豊富なことがわかります。中国悠久の流れ、上海にいると感じることはなかったですが成都あたりまで出向くとまだまだ時間がゆっくりとしているように思います(でもいつまでだろう?)。

昼食。2時間はいた(もっとだったかも)。とにかくゆっくりでした。
食べるところばっかりでした。
辛い

San Diego

Austin と並んでよく行きました。San Diegoへの出張は基本的に日帰りです。飛行機でわずか70分ですからね。ただスケジュールはきつかった。朝4時ごろには起床。フライトは大体7時前のに乗ります。とても混んでいるのですよ、それでも。満席。サウスウエストを使いましたがここは普通のチケットだとチェックインの時間で搭乗の順序が決まるのです。A,B,CとあるのですがAの60くらいまでになると好みの席は確保できます(座席は指定されていません)。24時間前にチェックイン(オンライン)がオープンするので皆アプリをインストールして時間がきたらチェックイン。でもついつい忘れる。そこで何回かに一度はちょっとだけ高いチケットを買ってました。この場合A15までは確定(いつチェックインしても大体A15ぐらいでした)。7時半ごろにはサンディエゴ空港につきます。現地にセールスがいるので待ち合わせは最初に行く顧客オフィス近くのスターバックスと決まっていました。そこまでタクシーで向かいますがちょうどラッシュアワーですから少なくとも60分は見ておく必要があるのです。スターバックスでやっと朝の食事をして9時にはもう最初のMeeting。日帰りなので帰りは大体6時ごろの便でした。サウスウエストを使ったことがある人はご存じだと思いますがここはとにかくよく飛行機が遅れます。短い区間をいくつも経由してくるからなんですが当初予定していたフライトの次のフライトが先に到着することだってあります。そんな場合ゲートで席に空きがある限り変更してくれますが私はどのフライトが遅れがちかとか知っていたので遅れる確率の高いスケジュールのフライトは基本的に避けていました。ビジネス客はそういったことを経験で知っているのです。そこまで事前チェックするようになれば、このブログを読んでいるあなたも立派なビジネスマン、ビジネスウーマン!空港でずっと待っていることほどつまらないことはないですからね。

San DiegoでのMeetingは早めに始めて終わりも早め、3時までMeetingをしたことはほとんどありません。なぜか? 早めに終えてそれからいつもビーチ沿いにあるポセイドンというバー、グリルで遅めの昼食をしたからです。北カリフォルニアは水温が冷たく泳ぐのはな~となりますが南は暖か(だそうです)。だからでしょうか?ビーチには水着姿を沢山みかけますしビーチ沿いのバーですからそんな客が多い。同僚(独身の男性)はそのポセイドンをとても気に入っていましたが理由はおっさしができるでしょう。

サンディエゴは有名なところでは世界的に著名な動物園(とにかく広い)、シーワルド、レゴランド(ちょっと離れていますが)、サハリといったアトラクション、そしてトム クルーズのトップガンで一躍名を知られましたが合衆国海軍の大きな基地がある州で2番目に大きな都市です。メキシコ国境まですぐ。アトラクションの多いところなので休暇で3度は行ったと思います。車で行くのですがLA辺りで一泊して2日かけて行くのが普通かな?若い人は一日で着くのでしょうけれどLAから南は交通渋滞がひどく体力がないと一日でというのはきついと思います。

サファリ

ここはQualcommを筆頭に半導体関連の会社も多いのです。Qualcommは20年以上前に働くチャンスがありましたが引っ越しが必要で行きませんでした。その後シリコンバレーにもオフィスを開きましたからあの時働くのでしたかね? そうすれば今頃はもうハワイのビーチでのんびり。。。なのですが。。。 とこんなことをいうとそんなのばかりです。ボストンにいたころIntelのインタビューを受けましたがアリゾナ勤務でのオファーになった(チームがアリゾナに集約されることになったとかで。。。)、やっぱりアリゾナはなあと行かなかったのですが行っていればやはり今頃はハワイのビーチです。そんなのばかりですがその時その道を選択しなかったのだから悔やんだことはありません (おっと嘘になるかな?ベンチャー企業でなんどもサラリーカットになった時、一度悔やんだかな)。

日本からの直行便が今は出ているはず。就航したり辞めたりと何度かあったはずです。LAから車で行けるのと日系企業が沢山あるわけはないので需要が不安定だったのかな?よくはわかりませんが日系スーパーも沢山あるから日本人も多く在住しているはずです。基地の町でもありますからね(海軍とMarine)。

ちょっと外れるとラホヤという町に出ますがここはハリウッドの映画俳優が避暑地としていた(いる)町としても有名です。それがためでしょうか? フェラーリのディーラーがあったりしますよ。高級車の店も多い。もう少しはなれてカールスバッドにまで出るとレゴランドがあります。 

旅ブログではないのでサンディエゴについて詳しくは旅ブログを見てくださいね。

じゃあ、何書くねん? ですが、ここサンディエゴは基地もあるからでしょうか?シリコンバレーがソフトウエア、シリコン(半導体)が主だった(今はずいぶん様変わりですが)のに対してワイヤレス(無線系の通信)に関するテクノロジーの企業が多いところです。Qualcommがその代表になりますがベンチャーも含めるとほんとうに沢山ありますよ。シリコンバレーのように大きな会社、例えばQualcommでずっと開発をしてきたエンジニアたちがベンチャー企業を起こす、それをまた大きな会社が買収する(いや、当初は投資も)というリサイクル・サイクルを繰り返すのです。そんなサイクルでテクノロジービジネスは成り立っていると言えるでしょうか。例えていうならSONYでやってきたエンジニアたちが会社を創立。その会社を東芝が買収(ソニーでも良いんですが)する。 こんな構図ですね。ずっとその企業でやっていくエンジニア(マネージャ)もいればベンチャーを興す人もいる。私がサンディエゴで行っていたのはQualcommはもちろんありますがそういったベンチャーが多かった。何社も訪れていますから”成功するか、しないか”は大体最初の2度目くらいのミーティングで分かりました。成功するかしないか、アイデアはもちろんですがエンジニアの質とそのアイデアのタイミングです。タイミングはとても大切で私などから見ても”へ?”と思うようなアイデアでもタイミング次第でビジネスになりすからね。このタイミングを見極めることが一番大切なんだろうと思います。あとはどんなアイデアかを私のようなエンジニアリングに携わる者が理解できないようなアイデアは成功しないように思います。なぜならそのアイデアを売り込むにしてもまずその話を聞くのは同じエンジニアなことが多いからです。ベンチャー投資家は技術的なことよくわかっている人もいますし。もっともよくわからないで”有名な人”が軒を連ねていたらとりあえず投資、いまの流行だからとりあえず投資みたいなこともあります。 今そういったので言えばAIでしょうね。いくつもの会社行きましたが60年代、70年代が旬だったような有名な人が絡んでいるだけで大きな資金を得ているような会社にいくつも出会いました。最初のミーティングで”何がしたいのか”さっぱりわからなかった会社もありますがそんな会社はもう今は存続しません。少なくとも同じ領域に携わるエンジニアが理解できないというのはそれがとんでもなく漸進なのか、ガラクタなのかのどちらかなことが多い。 ただ、エンジニアの中には説明がものすごく下手な人もいます。ちなみに私はとても上手だと思います(自己自慢)。そんな場合、成功するためには説明ができるエンジニアをチームに入れることだ思います。説明ができないがとんでもなくすごいエンジニアは設計に専念させる。ただね、説明が上手なだけじゃだめですよ、もちろん。

軍の町ですからこんな景色も。トップガンの映画で知られますがコロナドには海軍の特殊部隊の訓練所があることでもしられます。これも映画になってますよ。軍というと何か恐ろしいようなイメージを持つかもしれませんが、私がみるところ現在のアメリカの指導者の中では軍人(将軍、現役と退役)が一番まとも、いや尊敬できる人物が多いように思います。それだけいわゆるシビリアンに人材がいない(その最悪の例が今のホワイトハウスの主。不動産とテレビのリアリティショウをやってきて金儲と女性だけを追いかけていたような人物にリードさせようと選んだ国民に全責任はあります)。軍は外部から人材を連れてくるのではなく徹底的に内部で人材育成することで知られます。元国務大臣のパウエル将軍を挙げる間もなく人材が豊富です。政治には基本的にかかわらないのが軍人ですから政治的に中立なことが多いですが(そうならないキャリアを積んだ方もいますが、パウエル将軍のように)、ここでれいとして挙げるようなスピーチをできるのは今や軍関係者しかいないのかと思うと残念です。 以下YOUTUBEのリンクを付けますがどちらも素晴らしいスピーチです。https://www.youtube.com/watch?v=pxBQLFLei70   UTでのスピーチです。これを見た後ですぐに著書を買って読みました。若い人にとくにお薦めです。著書はまだ日本語訳がでていませんがスピーチの内容を基に書かれたものです。 もう一つはhttps://www.youtube.com/watch?v=mU0RfhvYN8s。コロラドスプリングスにある空軍の士官学校でのスピーチです。軍がいかにヘイトスピーチにたいして迅速に行動しているかを垣間見ることができます。こんなスピーチを指導者はするんです。退役された将軍や軍指導者の著書を読むといかに軍が人材育成、チームワーク(戦場に行ったら自分の命を預けるわけですからある意味本当に真剣)等についてトレーニングと教育をしていることがわかります。 

海軍の町。艦船のそばまで行けるのがアメリカ
コロナドビーチ。サンディエゴそばのまち。橋を渡って太平洋側にでます。

こんな書籍を軍の元将校が書いていることが多いです。原著(英語)で読みましたがおそらく日本語訳は原著に充実だろうと思います。リーダーシップの本だとか若い時にどんなことをすると良いのかなどで悩むようなときこういった実務で鍛えられた方の書かれた書籍はいわゆるコンサルタント会社(例えばマッキンゼーなど)でコンサルタントをされてきただけの方の書籍より面白くかつためになると思います。コンサルタントって、責任はないのです。責任ないのでなんでも書けるのですが理想的過ぎたり、実務に使えないような提案だったりで知識として参考にはなるけれど。。。といったケースが多かったりします。その点、将校は全責任を負っていますから迫力がちがうのをよく発見します。 アマゾンのリンク https://www.amazon.co.jp/米海軍で屈指の潜水艦艦長による「最強組織」の作り方-L・デビッド・マルケ/dp/4492045325/ref=sr_1_3?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=turn+ship+around&qid=1597434228&sr=8-3

セキュリティー

日本はセキュリティーが緩い国ですよ。アメリカも実生活では甘いほうかもしれないです、それに甘くなってきていると思います。ご存じのように銃の国で、しかも州によってはほとんどの場所に銃を携帯することができますからね。カリフォルニアはまだ厳しいほうですが共和党の牙城ともいえるいわゆる”アメリカ”は銃だらけとも言えます。私はそんなところにはいかないので実生活で銃とかかわりあったことはこの30+年の間ありませんが。

日本ほどでないにしてもアメリカ、セキュリティー甘いと言えるかな。一番の例が出国時です。どの国、たとえそれがEU諸国であっても出国の際には国の係官がパスポートをチェックするのですがアメリカはそれがない。もちろん搭乗ゲートに入るのに身元チェック(IDと搭乗券の名前がマッチするかのチェック)は係官がしますがいわゆるパスポートチェックは入国時だけです。”出ていくやつをチェックして何になるんだ?”と言う発想なのでしょうか、おそらくは。EUはいったんEU圏に入るとそれ以降どの国に行ってもパスポートチェックはないですがEU圏を離れる際にパスポートチェックはあります(出国のスタンプをもらう)。 日本も出入国どちらもチェックしますね。中国は入国も大変ですね。まず到着したらセルフキオスクでパスポートと指紋の登録をします(外国人だけ)。年に何度も行きましたから同じ年に2度目だった場合パスポートを読み取ったとたん指紋はしなくてよいと表示がでたので、”ああ、以前やってきたことはもう知ってるんだ”と思いました。セルフを通ってそれから係官のチェックになりますが、もう一度指紋を押収され写真もとります。2度するんですね。スーツケースを受け取って待ち合わせの場所に出ていくわけですが持ち物はXrayチェックされますよ。海外のスーツケース検査なんか信じるものか~ってなところでしょうね。国内線の場合ここまでしないからやはり疑っているのでしょうかね?と大変です。

いったん国に入ってもチェックだらけなのは私の知る限り中国だけです。 イスラエルのセキュリティーは厳しいと聞いていましたが私の経験だけでいうと、大きなショッピング施設などに入る際にカバンをチェックされましたが(爆弾が入っていないかとなね)それくらいなところでした。中国はカバンチェックは駅という駅、空港(空港ビルに入るにも)などで必ずされます。北京ではあるエリア、例えば故宮のあるエリアに入るにもカバンをチェックしますから以前も書きましたが私は仕事を離れたら手ぶらを決めていました。なにも持たない、女性には難しいですね。

北京は都市に入るのも大変です。一度電車(中国版新幹線)で北京に入りましたが北京行の電車の場合、新幹線の駅は入場するのにカバンとIDチェックをまず受けますが(外国人の場合パスポートです。スキャンしてすぐに照会するのでセキュリティーは形だけではないです)、乗車口に入る前に再度パスポートとカバンをチェックされました(プラットフォームに入る前)。もちろん長距離電車になりますから乗車券を受け取るにもIDが必要です。誰が乗車しているかは全部知られております。チケットには名前が書いてあります。アップグレードしたチケットは外国人(私)には手ごろな値段になるのでいつもアップグレードしましたが一度だけ車内でチケットとIDの照合をされた経験もあります。北京について今度は駅から出る前に再度カバンチェック(スーツケース)。何度チェックするねん? なのですがチェックだらけですよ。パスポートも常にチェックされます。カバンは持たなくともパスポートは必ずもっていました、これなしでは怖い。ヨーロッパなどではパスポートをホテルに預けたりしました(アメリカの運転免許証をID替わりに財布に入れていた)。が中国ではそんなことをするときっと大変なことになるだろうと、あのセキュリティー体制をみると思いますよ。そうそう中国はホテルに泊まるとパスポートチェックだけでなく写真も撮りますよ。本当、チェックだらけですね。もう慣れましたが好きではないです。

ここまでなら旅ブログでもおそらく紹介が色々とあってあらかたご存じでしょう。旅ブログはもっと詳しいと思いますよ。だからわたしがこのブログで書くのは一般企業のセキュリティーです。 

韓国、中国の大きな会社、例を挙げてしまうと Huawei, Samsung, SK-Hynix,などを仕事で訪れたことがある方もいると思いますので以下は”知ってるよ”となるかも知れないですね。これらの会社では 

ー ラップトップコンピュータの持ち入れはできないか、あらかじめ登録する必要があることが多い。

ー 持ち込めたとしてもすべての入力ポート(USBなど)やカメラ部位はシールを張られる(出るときにチェックされるのではがしたりしたら大変なことになります。最悪取り上げて返してくれません、ITが厳重にチェックを終えるまで)。 ラップトップのシリアルナンバーも控えられチェックされる。スワップなどできませんしたがって事前登録が必要なケースでこちらの都合で別のラップトップを持っていったら持ち込み許可はでません。あきらめ~。そうそう、メモリやSSDを交換できないようにシールを貼るしSSDドライブのシリアル番号も記録されますよ。とてつもなく厳重ですね。

ー携帯電話の持ち込みはゆるされないこともある。ゆるされる場合やはりカメラ部分などはシールをはります。持ち込んだ経験は一度もありません。

ーカバンはロッカーに入れます。カバンの持ち込みは不可。

ーノートとペンを持ち込むことは許可されない会社もあります。許可がある場合、帰り際にセキュリティーが調べます(何か隠していないか。。。)紙は持ち出せない会社が多いです、たとえ従業員であっても ダメ というところもあります。

ー車でやってきた場合基本的には外部にある訪問専用の場所に停めますが、沢山の機材を持っていく必要があるなどで内部に停める場合、トランクなどをチェックされます(出入りどちらも)。車の下も調べます。

ーパスポートチェックは当たり前。パスポートのコピーを撮られたケースもあります。事前に登録した訪問客のみを受け付けることもありますので人物照会も実に厳しくチェックされます。

などなど 枚挙にいとまがありません。もちろんX-rayチェックもありますよ。メタル類は空港と同じようにポケットから出します。カバンは従業員だけが持って入りますが従業員もこのセキュリティーを通るのは同じです。IDもバッジですが行いますが中国では今や顔認識が広まっています。見ているとあっという間に認識してゲートが開きました。

これらの中でもラップトップが一番困りました。というのは最近の新しい仕様のラップトップはUSB端子で電源、USBでDISPLAYにつなぐようになっているものが多いのです。そうなるとその端子、全部シールされているので電源はとれない、プロジェクタには繋げない、、、という事態になります。したがって古いラップトップに資料などを全部コピーして持っていきました。現地に同僚がいる場合現地でコピー。いない場合は出張のさいしてそんなラップトップの調達からはじまります。そのラップトップがたまたま稼働しない、なんてこともあり、その機種を事前登録してあった場合もうお手上げ。持ち込めないですから。臨機応変など全く期待できません。リストにない、の一点張りでだめ。仕方ないのでラップトップなしでミーティングをするといった情けない事態になったことが何度もありました。ちなみにセキュリティーは会社の社員でなく契約会社な場合もあり従業員に対してもとても厳しいです。容赦しない、ってところですね。

こんなことになるからでしょうか? 会社によってはミーティングだけできる場所、普通はいわゆるキャンパスの外にあるビルの1階部分)をもつところもありました。この場合多少セキュリティーはあまくなりラップトップにシールなどはされません。ミーティングに出てくる顧客サイドの人たちはみな手ぶらできます。ラップトップもノートも持ってきません。白板などもないので何も書くこともできないですから。まさしく持ち込んだラップトップだけ~という世界ですね。

こういった会社は従業員も細かくチェックしていますよ。まずラップトップは使っていないし、デスクにあるコンピュータにUSB端子もありません。 出入りに際してはXrayは通るし携帯電話持ち込めますがカメラ部分はシールが貼ってあります。大変ですね。 また、まことしやかに言われているのが従業員のタイプした内容はすべて記録されていてその従業員が退職する際ITがそれまでの膨大なタイプの記録を調べ上げるとか。。。本当かどうか知りませんよ。

ここまでするのはすべていわゆる産業スパイ対策と従業員による情報のリークを防ぐためですね。日本で唯一、といってもとても緩いですがこのようなセキュリティーを置かれている会社はというと以前産業スパイ(といっても実は内部犯行でしたが)に情報をリークされた企業だけでしょう(実名をあげるのは控えておきます)。それでも全然緩いです。かの地の企業のセキュリティーは甘くない。入るときも出るときもそれこそ徹底的にチェックしますからね。

はるか昔ボストンで働いていたころ、私のいた会社も時折抜き打ちで出口チェックをしていました。セキュリティーがカバンをチェックするのですが”メタル”をチェックしていたのです。価値あるものがあるので(例えば私がかかわっていた半導体チップ。一1000ドルくらい(ひとつ))。なんでもメタルはだめ。。。とか言ってましたね。 なんだ、盗人をさがしているのか? なのですが、実際それが目的だったようです。 チップって小さいですが高く売れますからね。

イスラエルについて書いたのですが仕事で行くような場合招待状をイスラエルにある会社(子会社)から送っておいてもらいました。同じものが関係官庁にも送られているそうです。入国に際してそれがあるか、ないかで時間が違います。私は大体5分もあれば係官を通過できましたが待っている間にみていると人によっては30分以上もかかるようなケースがありました。ちなみに国柄を考慮してなのでしょうね、パスポートにスタンプはしません。入国時のカードをくれます。イスラエルのスタンプがあるとアラブ諸国に入国できないからだとかどうとか聞きました。帰国時もその招待状が必要です。航空券を受けとる前に係官の質問を受けますが(どこにいた、何をしていた、などなど)、良く知られた会社の照会状を持っているとそれを確認する作業を済ませるとすんなりチケットカウンターにたどり着けました。聞いたところでは私の行動は全部もう知られているとかいないとか。。。 なんかスパイ映画のようですね。 驚いたことに私はペットボトルを搭乗口にまでもっていくことができました。バックグラウンドチェックで不審者か、信用できるかを厳密に判断しているからだ、とイスラエルにいる同僚は言っていましたがこれには驚きました。

と以上セキュリティーに関する経験でした。日本は安全な国です。 まあ、アメリカも甘いから同じように安全なのでしょう。アメリカは行くところさえ気を付ければ安全と言えます。安全だが、甘い。。。

最後に以上の例は基本的に大会社です。中国での訪問先、ほとんどがベンチャー企業でしたが今度は全くセキュリティーが無い。。。 貸しビルに入っていることが多いですからだれか入り口にいますがな~んにも言われません。いったん顧客のオフィスに入っても、まるで従業員のようなごとく、どこをウロウロしていても誰にも止められない。なんでも話しますしね。シリコンバレーのベンチャーと全く同じような感じです。このギャップはなんだ?と時々思いました。韓国はわかりません。ベンチャー企業というのが存在するのかな?と思うほどに財閥系の企業しかないですから。財閥系の企業はどこもセキュリティーが厳しい(わけでもR&Dに近い程厳しくなるようでした)。ベンチャー企業に行った経験はしたがって一度もないのです。

ところ違えば全然違う。 これなど自分で経験するしかよくわからないですね。ひどいことにはなっていないので、つまり係官にどこかに連れていかれたりSSDを押収されたりとか、ただチェックされるだけでもう慣れっこにはなっていますがうっかりするとミーティングに参加できないなんて事態にもなるのですから抜かりないようにしていました。それでもトラブルには何度も遭遇しましたよ。というお話でした。

写真は北京 天安門広場。 セキュリティーを通過しないと一帯にははいれません。

これはイスラエル入国時のカード(青)と出国時のカード(ピンク)の一部。パスポートにスタンプはしません。

夢からビジョンへ

”いつでも夢を”という映画とその主題歌知っていますか? これは吉永小百合さんの青春映画のひとつです、と言って”みたことがある”なら、あなたは”昭和生まれ”間違いなしかな? とても良い映画ですよ、今見ても。もっとも私は昭和生まれですがこの映画が上映されたときはまだ赤子でしたから初めて見たのはそれから15,6年は経った後です。あのころ京都市の祇園界隈に祇園会館という映画館があった(今はありません)のですがそこで3本500円くらいで古い映画の上映がされていたのです。そこでこの映画を見たのをはっきりと覚えています。 以来、吉永小百合さんのファンですから。 私の世代はというとキャンディーズ、山口百恵さん(歌に恵まれた方ですね)や松田聖子の時代ですがそれでも小百合さんは人気がありました。 私は吉永さんは別格で薬師丸ひろ子さんの映画は欠かさず見たファンの一人です。この映画の主題歌、インターネットで見つけることは簡単です。 例えばここ。https://www.youtube.com/watch?v=_9pewaS3Dhs&t=30s

吉永さんのインタビューを後年見たことがありますが、その中で ”よく走ったわね”とおっしゃっておられました。ほんとうあの当時の映画をみると吉永さん、いつも共演の浜田さんと一緒にとにかくよく走っています。 それはまるで昭和時代の”忙しくて”仕方がなかったころをそのまま表すかのように。昭和は走って忙しかったのですよ。子供のころの話をするとちょっと馬鹿にされますが全部覚えているんですね、私も確かに走っていたかな(昭和も半分が過ぎて生まれ育ったわけですが)。

ところで先日書いたブログで紹介したアーノルドシュワルツェネッガーさんのスピーチで彼はビジョンを持てと言っていましたがDream (夢)とは言っていなかった。ここは重要だと思うのですね。 夢を実現するにはビジョンが必要。ビジョンは彼が言っておられるように、そして少し私も書きましたが非常に具体的でかつ頭にこびりつくものなのです(だそうです、というほうがより正確)。”夢だけで終わらせない、実現するんだ”、と私も含めよく人は言いますが終わらせるか、終わらせないかの違いはこの”ビジョン”を持つかどうかに掛かっていると思います(経験でも)。そして、色々ときいたところではビジョンを焼き付けるのに一番適したやり方は 朝の瞑想 だそうです。 5分間の瞑想で良いんだそうです。 そして瞑想はやり方があるそうです。本当に色々と試しましたが未だに瞑想できたという実感はありません。それが理由でしょうね、 未だにビジョンが乏しい私は成功(幸せ)から程遠いところにいる。 が朝起きてベッドに座って瞑想の恰好だけはいまでも続けています。いつかは悟りを開き瞑想できるようになるかなと。。。

Denzel Washington さんの卒業式におけるスピーチ。 ”夢とゴール”と言っておられますがこれを”Vision”と置き換えるとアーノルドさんのVisionと同様になるはずです。これ、良いスピーチですね。彼の生い立ちご存じですか?

という紹介でした。

ついでに書くと、時々私の経験を話すと、ほぼ必ず質問されたのが、”寂しくなかったですか?”です。30年前のボストンは日本からは遠かったし社内で日本語を聞くことは皆無でしたからね。でもこれは愚問と言いたい。そりゃ寂しくなることは幾度もありましたから。ボストンは冬吹雪で荒れることがあるのです。冬暗くなって帰宅する時に会社の駐車場で一度ロックアウト(車の鍵を車内に残してロックしてしまった)ことがあります。ちょうど吹雪が始まって雪がどんどん降ってくるんです。オフィスにもどってセキュリティーと話をして、こんな場合消防が助けてくれるということで電話して来てもらいました。色々とツールを持ってきましたが中々それでもドアは開かない。寒い中二人で奮闘しましたが”ああ、もういやだ”とあの時思いましたね (帰る(日本に帰るってことです)と思ったのをよく覚えています。)後日談をかくなら、ボストンの駐車場でもロックアウトしたことがあるのですが、駐車場の係員の若い男性、ペラペラの板のようなものを窓のところに差し込んだかと思うと10秒もぜずに開錠しましたよ。初めて見ましたが彼にかかったら車上泥棒はお手の物ですね。あの吹雪の中一時間ほども奮闘したのは何だったんだ?と思いましたから。 

あの時代はインターネットは無いに等しく、もちろんGoogle、Facebook,、YouTubeなどはありません。 IPHONEもないですよ。 EMAILは一般ではまだ普及していなかった。私はコンピュータの会社にいたのでEMAILは有りましたが社内使用以外誰に書くねん?でしたし。 そうそうAMAZONもありません。今からするともう考えられないような時代だそうです、確かにね。 DVDもなかったのですよ。ようやくVideo CDというのが出てくるころでした。 CDはありましたよ。CDは私が大学生(3,4年生ごろ)出てきた媒体です。今はもうCDはあまり見かけなくなりましたけれどね。まだVHSビデオの時代でWalkmanもまだあった、そんなころですね。日本のVHSを何本か持っていたのでそれを見てましたね。その中にはもちろん吉永小百合さんの青春ものの映画もありました。キューポラのある町 という映画をVHSで探しましたがなかったのを覚えています。 いまYOUTUBEで探しても出てこないです(フルには)。これは一度も見たことがないのでぜひいずれ見たい。それ以外には映像、ビデオはあまり覚えていませんが音楽はよく聴きました。中でも一番聞いたのはショパンのノクターン G Major と E-Flat Major 演奏はルービンシュタインさん(に限ります)。おそらく30年のUS生活で一番きいたでしょう、今でも一番好きなピアノ曲です。あまり音楽を聴くほうではなかったですがあの頃は良く聴いていました。

とはいえ、まあ、なんとかなるものです。 若い時は特に。それにいまはFacebookもあるし。でもね、何もなかったからよかったのかもしれないです。 なんだかんだで忙しくしていましたから。 ハーバード大学が夜間のコースを開いていたので、オンラインなどない時代ですからキャンパスによく行っていました。ハーバードで夜間のクラスを取り始めて会社近郊(田舎)からボストン近郊の大きな家で部屋を借りました。大家にあたる人はビジネスウーマンでほとんど家を空けていたので彼女の猫の世話をすることが条件でした。3匹のシャム猫(マシュマロ、ファッジ、ハニーバーン)とてもなついたんですよ。以前のブログでペットについて書いてますがあの3匹を世話したので動物が生活にいても平気になったのだと思います。ボストンシンフォニー(小沢征爾さんで知られますね)が火曜日(木曜だったかな?)の昼にリハーサルをしていましたが一般公開していましたので時々行ってました、会社を早くでて。自宅とした大家さんのところから電車(Green Line)で行くことができ便利でした。元々クラシックを好んでいましたがずいぶん色んな曲をリハーサルで聴きました。夏はボストンポップスがボストンにいて交響楽団はタングルウッド(ボストンから車で2時間ぐらいかな)に移りそこでコンサートがありました。夏は4回経験していますが毎年一度は行きましたね。良いところです。ボストンポップスの演奏も聞きにいきましたよ。

今はBLOGを書いてますが普段は仕事以外でコンピュータを使うことはほとんどしません。 YOUTUBEもほとんど見ないしTWITTERもしません。ボストン時代に触れてこなかったからでしょうね。 それより本を読むほうが多いです。書店は週末毎行っていました。カフェのついている書店が多かったのでそこで何時間も過ごしたのをよく覚えています。そうそう、冬は寒く雪が降ります。会社から一番近いスキー場まで車で30分程度だったかな?毎週水曜日は会社のスキーイベントがありいつも行っていました。滑るというより食べるためでした。食事が無料で出たのです。

なんだか表題とは違い私のボストン時代の回顧録みたいになってしまいました。

千疋屋のメロン。 昨年日本で買いました。千疋屋のメロンと言えば 贈ってもらうことが皆の夢でしょうか? 贈ってもらえないから自分で買って食べました。美味しかったです。贈ってもらうともっと美味しいのかな?

Boston 近郊。こんな緑だらけのところに住んでいたのです。下宿でしたが昔の家(サテライトで見ると建て替えられていた)、メイドの部屋が屋根裏にありそこを借りていた。トイレ、バスルーム、キッチンと全部そろっていてドアを閉めると完全な住居区域になります。ここからBOSTONまで自転車でも40分程度、電車もありましたがT(地下鉄)Green LineのDライン。このラインはケネディー家で知られたBrooklineなどを通ります。Dライン沿いはとても裕福な街が並んでいた。隣町にWellesleyがありますがここは世界的にも知られたWellesley College(女子大)があります。とても高い塀があったはずで中には入れなかったはず。。。この辺り今でも歩いたり運転しても迷子になることはないと思います。

失敗 と 仲間

失敗を恐れるな、若いうちは沢山失敗をしろ、失敗が将来の糧になる。。。なんて聞いたことないですか?会社で上司、先輩(経験やランクは上の同僚・先輩は日本的。。。)、はたまたより身近な友人、先生、家族(両親や叔父、叔母など)がアドバイスとしてくれるかもしれない。

でもね、そういったアドバイスをくれる人、”あなたたちは失敗をしてきたの?”ときいてごらんなさい。私の予想、ほとんどが”失敗を恐れてやってはいない”はずです。私はよく言うのですが”言うのはただ。いまや言葉に責任を持つ”人は政治家や官僚、いや、会社のトップをみてもあまり見受けないでしょう?だから”失敗を恐れるな”、実は”失敗したら責任は全部君が負うんだ”っていうことなのです。”若いうちは沢山失敗しろ”というのは”やってみろ、だめだったらその責任は私が負う”と言える人が使う言葉だったと私は思います。”頑張ってください。応援してます”ともよく言いますがこれは全然意味がない言葉だと思う。英語でいうグッドラックに近い。これ、言ってみれば、”バイバイ、またいつかね”とも取れるわけです。

失敗はやっぱりとても怖いです。沢山失敗しろといっても一度でも凹んでしまいます、実際には。事業など一度の失敗が命取りになりその後中々立ち直れないのは普通のことです。”かけ”になるようなことをしたくはないのは誰も同じ(だから私を含め大多数は“勤めているわけ”です)。

以前のブログで”チャンスは逃すな”、アーノルドシュワルツェネッガーさんのスピーチにある”辞めたほうがいいよ”といった否定的な言葉に耳を傾けるな、などと書いておいて”おいおい、今度は失敗について書くのか?”と”言ってることが違うじゃないか?”と思うかもしれないですね。

失敗を想定して物事を始めよ、といっているのでもないです。やるからには成功する、やりとげる、その意志は必ず必要です。でも、”軌道修正する”柔軟さも必要なのです。得てしていったん始めるとこの”軌道修正”ができないことが多いです。もしくは”軌道修正”ばかりしている。どちらも成功には程遠い、と思います。少なくとも私は、これまでの人生、仕事 そうだった。かたくなになって失敗した経験とちょっとなにかあっては”やり方がだめだ”とか、なんとか、かんとか自己理由をつけて辞めてしまったり、目標を変えたり。。。こんなのばっかり。 

コロコロとやり方を変えたり目標を変えたことは結局自分にとってどうでもよかったことなのでここでは”かたくなになって”軌道修正ができなかった場合での失敗を挙げています。これまで本当に沢山してきましたがその失敗のほとんどが”自分でやろう”としての失敗が多かった。前にブログにも書きましたが成功への一つの鍵として”仲間”がいるのです。前にもかきましたが同僚(友人)のような仲間もいれば、上司、部下、メンター(アドバイスをくれたり、愚痴を聞いてくれるような人)のような仲間もいるのですが、”迷惑になる”、”聞いてはもらえない”とか、色々と自分の中で理由を作って”これは自分でしないとだめになる”という思いが強くなることがあります。私は芸術家、作家といった職業ではないのでこういったその人個人が”勝負”といった人たちのことは全くの素人なのでここで書いていることが万人に通じることだとは言いませんが。よくあるのが”仲間を裏切れない”ではないでしょうか? 特にその仲間が友人だったり元の上司(恩人)だったりした場合気持ちとして難しくとても悩むことがありますね。

 その仲間について。

先のブログで昨年は元上司のお願い(誘いと書きたいが実際のところ何度もお願いをされた)でチェコにある小さな会社のコンサルタントをしていました。一昨年前ごろ勤めていた会社を彼は辞めさせられるような形で辞職していきました。これはUSではごく普通にみられることですが、CEOが新し部門長(副社長クラス)を雇った場合新しく来た人はそれまでの上位にいるマネジャを全部変えて自分が新たに雇うことで人事面で優位に立とうとする、その一環の中で起こった人事事件です。もちろん優秀な人だったので投資会社がそのチェコの会社に投資するにあたりボードメンバー(取締役会)と副社長、言ってみれば取締役にして執行役員でもある、として彼を雇ったのです。私はエンジニアだったので上の人事が変わろうが影響は受けないのですが新しく入ってきた私の”新しい上司”とはあまり馬が合わず(30年近いUSでの仕事で唯一馬が合わなかった)、転職を考えていた時でもあったのです。ちょうどそのころGAFAの一社にいた元同僚がエンジニアのポジションを紹介してくれ20年ぶり(?)にジョブインタビュー(面接)を受けていました。この会社面接の厳しいことでしられ、都合13人と技術面接をしましたがオファーを受けることができました。ちょうどそのころです、その元上司に”手伝ってくれ”と頼まれたのは。普通に考えるとGAFAの一社でしょう。給与面、待遇面等で雲泥の差がありましたから。でもたっての頼みで且つ、R&Dエンジニアではなくこれまで通りマーケティングに属するエンジニアということで、R&Dに戻れるかな、といった不安もあったので家族には”うまくいったときの絵空事になるような話だけ”してGAFAのオファーを取らなかった。ちなみに今はGAFAの一社にいますがべつの会社です。GAFAのうち3社インタビューの経験があり2社はパスした。。。

でも今はその会社ではもう働いでいません。入って分かったことですが製品が大学生の卒業研究程度のものでとてもじゃないが競争力がないことが分かった。詳しいことまでわかっていなかったその元上司と話し合い、とにかく今とりかかったUSでの大きな案件、これはデザインサービスで製品をうるというよりエンジニアを売るようなことだから何とかなるだろう、そのうえで小さなグループで中国市場に特化した製品を作ろうと早速”軌道修正”をしたのですが、先にも書いたことがありますがチェコ人は私たちにとって仲間にはなれなかった。やり始めたのですから何とかしようとしましたがどうにもならない。 USAの大きな商談を失ったあとはもう中国しかないと3週間に一度(つまり毎月)のように中国に行くようになりましたが競争はとても激しくとにかくあのスピードについていく必要があるのですがチェコのスピードは日本のスピードよりもまだ遅く完全に周回遅れな状態。

自分の自己修正の時が来たと悟り、元上司には悪かったのですが、以前顧客にしていたGAFAの一社が以前から一緒に仕事をしないか?と誘ってくれていたので形式だけ面接を受けた後入社しました。オファーをもらって”辞める”と言ったところ、”よく今まで働いていてくれたな。すぐ諦めて辞めるかと思った”と言ってくれたので”ほっと”したのを覚えています。私の失敗は私の上司はビジネスを見てきたが技術がわかる人ではなかった。技術者が大切なベンチャー企業に賭けるのだからエンジニア、エンジニアのトップと少なくともインタビューをしておくのだった。チェコだしても行くことはできたわけです。どんなメンバーでどんな製品(技術)なのか、見ておけばたとえ元上司の頼みとはいってもこの会社を手伝おうとはしなかったはずだからです。自分の失敗を何とかしようとあれこれ、本当に毎日ありとあらゆるコネクションを使って顧客訪問とその結果をR&Dチームに渡していましたがらちが明かず前に進めないでいましたから。軌道修正するタイミングだったのですね、私の仕事の軌道修正。結果、いまはR&D部門に戻っています。

失敗とわかったら軌道修正できるんだと覚えておく。 同時に頑固さも大切。こんなことを書いたので”軌道修正すればいいんだ”と安易に考えるのは良くないかな、でも。私はベンチャー企業に19年もいました(ほとんど創業時からのメンバーのひとり)。19年の最初の7年は紆余曲折の連続でした。給与カット30%、6%、2%を経験したので会社が買収されたときの給与はその時点で入社時の給与より少なかった。13年働いて下がる一方だったのですね。会社が買収されたときにいわゆるストックオプションが現金化されてカット分以上になりましたが給与カットが有る事に辞めていく同僚もずいぶんといました。他にチャンスは沢山ありましたからね。自分たちの技術と仲間を信じていたので”売れない理由は何だろう”ということでセールスと一緒に顧客を回りました。それが縁でR&Dからよりセールス側に移っていくことになったのですが”良い技術だ”という確信はあったのです。私自身のやり方を変えて貢献してみようとそんな軌道修正はしましたが”安易な”修正 (他社に移る)ではなかった。頑固だけだったのかもしれないですがね。実際かなり頑固な親爺ですから。偏屈者だそうです。これは母が私が若いころよく言ってました。私を一言で表すならこの表現が一番ぴったりです。

料理は失敗作だらけです。やり方を見ても、読んでも自分で試すと上出来のことは少ない。。。でもなんか好きになりあれこれ試しています。うまくいくとあっと言う間になくなるしそうでなけれは私が責任をもって食べています。責任を取るほうが未だに多い。。。

ウイーン

日本人はウイーンという。英語ではビエナですね。日本語はできるだけ現地語の町名で示しますが英語はそうしない例が多々あります。例えば プラハ。英語ではPrague (プラハではない)、 イタリアの町はもっとそういった例が多いですね。フィレンツェはフローレンスになりすし。ドイツ(大体ドイツというのはドイツ語からきていますね、英語ではGermanyだ)にもそんな町名があります。 

さてそのウイーン。チェコのBrnoという町に行くにはUSAからだとウイーン経由でタクシーと言うのが一番行きやすいのです。車で90分ほどになります。首都プラハからだと電車で3時間もかかります。車でも2時間ちょっと。というわけで2度行ったBrnoいずれも行きはウイーン経由でした。夕方着くので到着日をウイーンで過ごしたのでちょっとだけ町を見て回ることができました。出張ってそんなものなのです。まあ、これで独り身であれば前後に休みをとってもう少し見て回ることもできたのでしょうがそんな贅沢もあまりなく。。。 だた短い時間だけの滞在になるので見て回るということに関してはかなり貪欲になります。”足であるく”わけです。でもね、はっきりって全然見て回れなかった。。。 今度は出張でなくやってこようともうBrnoには戻らないであろうと分かっていた2度目のウイーンで私の行きたいところリストに入れておきました。

町は帝国時代の中心だったこともあり非常に裕福です。オーストリア人は基本的に裕福だと言います。人口の少ない西欧(東欧ではなく)は基本裕福ですがオーストリアも人口少ないですからね。以前、オーストリアは観光と銀行だけの国ではないと書きましたがそうはいっても観光と銀行(金融)は大きな比率を占めていると思います。観光客であふれていました。ANAが成田からの直帰便を出すというので至る所でその宣伝ポスターを見かけました。これまでなかったのかな? 

私はUSAから行くときはオーストリア航空を使っていました。LA経由になるので不便なのですが、この航空会社スターアライアンスのメンバーなのです。オーストリアにビジネスで行く人はやはり少ないのでしょうか、スターアライアンス Goldメンバーはほとんどいない(Unitedを使っていますがUnitedだとごろごろいます)。というわけで、いつも席がビジネスクラスにアップグレードできていたのです(航空会社の計らい)。オーストリア航空のビジネスクラスはシェフが搭乗していてステーキなどを機内で調理します。JAL、ANA、ビジネスクラスの食事とてもいいですがシェフの搭乗はなかったので私はオーストリア航空だけでの経験になりますが好みのステーキに感動します。それとフライトアテンダントはめっぽう親切で丁寧です。ヨーロッパの航空会社BAなど乗ったことがありますがオーストリア航空は私の経験でいうならとても良い(もっとも2度ともビジネスクラスになったためかな?)。

ヨーロッパの町は中心部(旧市街地)は石畳で道も古い、したがって幅細く曲がりくねっていることが多いですがウイーンも御多分にもれずそんなたたずまいです。教会が例によって中心部にあるのも同様。映画のシーンにもよく出てきますね。ただ映画等だと個々のお店などは映し出されないのでやはり自分で歩いてみるしか本当の雰囲気、場はわからないと思います。昨今のコロナウイルスのさなか、バーチャルなトラベル、VR (バーチャルリアリティ)を用いたトラベルというのが一部話題になりますがバーチャルなトラベル、私にはピンときません。YTUBEなどでもきれいな映像やYTUBERの映像を見ることもありますが、自分で見たのとは全然違う、という印象だけでした。例えば高級ブティックに並んでチョコレートのお店も沢山ありました。どこのヨーロッパにもある光景ですが映画のシーンで見たことは皆無だといえるでしょうか? ちなみにお土産にチョコを買ったのでいくつかお店に入りましたがアジア人だけ、と言えるようなお店もあれば全くいないお店もありました。皆情報を得て行っているのでしょうけれど、情報は見ておくが現地を自分で歩くということも楽しいですよ。私はオーストリアでしたが美味しいスイチョコの店を見つけて入りました(アジア人観光客はいなかった)。ちなみに片頭痛があるので私自身はチョコを食べません。もらったとしても(だれがくれるのかな?)、ずっと飾っておくことになるでしょう。チョコを最後に食べたのは片頭痛だと診断される前だからもう7年は経っていますよ。

夕食は観光客の入りそうにないようなレストランで食事をしました。中は私の3人組を除いてみなオーストリア人とおぼしき人たちでしたが活気はありました。一緒に行ったグループはいくらでもお酒が飲めるのでどんどん飲んでおりましたがウイーンは”高い”のです。ちょっと伸ばしてチェコに入ってしまえばビールはもう水のような値段で買えるのです。ほとんどのところで英語が通じたのでなんとかなりました。こういった場合、やはり英語が一番通じる確率があるのはわかります(もちろんドイツ語使えるともって良いです)。

全然紹介になっていませんね。私は自分で経験することを薦めています。あまり情報を持たないでいるほうが良いと思います。現地にやってきてからでも情報は入りますから。ただ、情報ではなく”教養”としてオーストリアならオーストリア、ウイーンなどについてあらかじめ知っておくと現地でツアーなどに入った時にとても役立ちます。なんとなくそうするとわかってくるのです、それが初めての土地でも。

ウイーンはこれまでいくつか写真を添付しているので新しい写真を添付しておきます。私は若いうちはとにかく外にでることを、30過ぎて初めて日本国外にでた遅咲きのトラベラーとして経験から薦めます。内向きになりつつある昨今の世界情勢ですがグローバル化の大きなうねりはコロナウイルスでも逆回転させることはできない、させてなるものか、と思います。

上海

中国について2度ほど書いてきました。今日現在(2020年8月)中国に関して話題になるのはコロナウイルスと中米(トランプVS習のいがみ合い)が巻き起こしている経済的、政治的不安定でしょうか? 政治的なことをブログの対象にはしないと決めているので中立的な立場で純粋にビジネス的な立場でブログに2度ほど書きましたがまだ”都市”をタイトルにしたブログは書いていませんでした。 というわけでこれが最初の中国 都市バージョンのエントリーになります。

中国はビジネスでのみ行った国なので行先は北京、上海、深圳といったメガシティーでかつハイテク産業に力を入れている都市になります。その衛星といっては失礼ですが周りの都市として杭州、天津などへも行っていましたが頻度的には少ない。成都まで出かけたこともありますが例外かな? 香港は空港だけ。深圳に行くのに陸路を使うと香港経由になるのです。

わけても私は上海に一番多くの回数行きました。上海に一番大きな顧客がいたのが理由ですが年少なくとも2度は上海に行っていた。上海の新しい地域である浦東エリアが仕事での主戦場になるのですが開発速度の速さには本当にいつも驚きました。中規模のいわゆるオフィスエリア(オフィスとレストランなどの複合施設)は6か月もすると新しいのが“産まれる”といったスピードで前回行った顧客のオフィスが新しいビジネスエリアに引っ越しているというのはもう普通な出来事でした。オフィスエリアに入ると中国語のスローガンと基本”赤”で装飾する(中国人は赤色を好みますから)のを除くといわゆる西洋的で私の会社の中国オフィスがあったKerry Parkエリアなど、USにいるんじゃないかと錯覚すらします。Kerry Partエリアは特に特別だったかな。地下に下ると中国的もなりますが2階、3階あたりはショッピングエリアも私の住む近所のショッピングモールとあまり雰囲気が変わりません。”中国人が大半だろう?”ですが、私の住む界隈はアジア系住人が人口の40%を占めますから”よく似た”光景なのですよ。 

なので仕事を終えたら浦東にはあまりいないで西側(川の西側)のいわゆる上海に行っていました。仕事は過酷になりがちでしたがさすがに着いた当日は夕方なこともあり仕事がないのでホテルをチェックインしたらすぐにそのエリアに向かっていました。地下鉄網が完備しており便利です。しかも電車料金は格安。というか、どの国の電車料金と比較しても日本の電車料金は異常なくらいに高額だと思います。中国では電車の駅に入るにはカバン検査があります(飛行場と同じく)。あれだけの住人がいますが一人漏らさずチェックするのですから大したものです。上海はまだそれでもましなたぐいで今度北京についても書こうと思いますが北京は首都ということもありチェック体制は何重にもなっていますよ。そんなわけで仕事を離れたら私はカバン等は一切持たないようにしていました。ちなみに中国はいたって安全な国だと思います、都市部しかしりませんが。

河沿いにバンドと呼ばれる一帯があります。 上海が西洋の租借地だった時代に作られた西洋風の荘厳なビルが林立しています。夜になるとライトアップされてとてもきれいです。河沿いは遊歩道になっており、上海住人、観光客で溢れかえっています。遊歩道から浦東側を望めますが対岸は新しいファイナンスエリアになっており銀行関連のビルが林立しているのと新しい上海を示すタワーも見ることができます。何度か歩きましたが歩いているとほぼ決まって中国人観光客に”写真”と取ってほしいと言われました。中国語少しだけならわかるので撮ってあげましたが、難しいリクエストをされるとさっぱりわからず、まだまだ一般会話をするには至っていないなと痛感。 バンドの写真と対岸の写真を添付します。

西側には大きな’ショッピングエリアもあり、まさしく中国です。ひとの数とその喧噪はすごいものがあります。とにかく人、人。 ですが、一歩その大通りから外れると高級ホテルやブティックが並ぶとてもしゃれたエリアになります。そのあたりにあるホテルに今度予約しておくよ、と以前働いていた会社の同僚が言ってくれていたのですが、会社を辞職してしまい達成できなかった。昨年上海で会ったら、”あのホテルに泊してから辞めればよかったのに”と言っておりました。チェコの会社でコンサルタントをしていた時期でそれまではいわゆる”外国人”が宿泊するホテルに滞在していましたが”中国人ビジネス客”が宿泊するホテルに滞在するようになりずいぶんとかってが異なり彼にぼやいたので。。。 今の会社、中国行くとするならコンファレンス出席になりますがあの河沿いのホテル宿泊できるかな~と思ったりします。逃したのは残念。

フレンチクオーターという一角は中国共産党発祥の地としても知られていますが今はとてもおしゃれな一角になっておりショッピングと食事のエリアです。一緒に行った同僚(私の上司になる)と着いた当日はその一角で時間を過ごしたものです。現地の同僚が一緒しますがそこで初めて実際の予定を聞き、作戦会議を開いたものです。難題があっていくことも多かったので飛行機に乗っている間進捗も知っておく必要がありましたから。とは言え、外のテラスでの食事は飛行機疲れをとるには良いところでした。 

上海は大きな町ですが歩くこともできます。地下鉄が至る所にあるので、一駅歩いてみると新しい発見を沢山することができます。ショッピングエリアは至る所にありまあ、もう世界中のありとあらゆるブランドのロゴを見つけます。アップルストアも何店舗のあり、しかもどれも大きい。中国はとにかく何でも”大きく”作りたがる(人口があるから仕方ない?)。大きいことは良いことだ(必要だ)なのです。スターバックスも沢山あります。これだけ米中いがみ合いをしているのに大丈夫かな?と思ったり、政治家はいがみあってるけど中国人は基本的にアメリカや日本のもの(そして私の経験だけでいうとアメリカじん、日本人)好きですから。ニュースだけ見ているのと実際に接してみるのはずいぶん異なると思います。

小さな店がひしめき合っていてとても楽しい中国的なエリアで。地下鉄が大体4元ですから18元というのは高い。。。

有名な公園(有料。中国人の友人曰く、社会主義の国だけど、中国に”無料”という言葉はない。。。とか、とにかく有料なところが多いように思いました)で。怒っているのかな?真っ赤な顔ですね。

偏頭痛

片頭痛とも書きますね。女性に多いんだそうですが私はどうやら母親ゆずりで片頭痛持ちです。妹が二人いますがどちらも日本で看護婦をしている(していた)のですが至って健康で片頭痛を持っていません。男子に遺伝する確率は低いらしいが。。。 ただ、片頭痛だと分かったのはこの7年前ほどでそれまでは頭痛持ちな体質だと思っていました。鎮痛剤が全く効かなくなり頭痛専門医にかかりましたがそこで片頭痛とわかりました。薬をもらいましたがいや、人生が変わるくらい楽になりましたよ、片頭痛に襲われたときには。2時間もするときれいに痛みがとれます。あまり頻繁に服用できない(一か月10回までで週に3日の服用もできない。一日に2回の服用は大丈夫)。だから頻度を10日以下に減らすための生活改善も必要。現在の頻度は月12回程度、7年前は15日くらいはあったので少し減りました。20日もあると重度になるようでボトックス注射を保険適用で受けることができるそうで人によっては劇的に頻度が少なくなるそうです。生活改善の一つに毎日30分エアロビクスな運動をするというのがありジムに通っていましたが今のコロナウイルスためジムを自粛しているので最近また頻度が増えてきました。家の周りで色々運動はしていますが足りないんだなと。。。いや、たぶん自宅勤務でずっと座っているからか?オフィスにいるとミーティングだなんだでやはり色々あるきますからね。会社はキャンパス内にビルが40程度ありミーティングに出るにも自転車を使うことが多かったのでそれが適度の運動になっていたのでしょう。 片頭痛とわかってからは色々としらべ、”いい”と聞いた、読んだことは何でも試しています。とても残念なことに片頭痛持ちに温泉はあまりよくないのです。お風呂もね。温めるのは逆効果なのです。痛みがきたら基本冷やす。いずれ引退したら本格的に片頭痛を研究したいと思っています。自分のためにも片頭痛持ちの世界の仲間のためにも。エンジニアなので先日自分の人生を計算してみました。今の頻度だと残り人生の三分の一は頭痛。残り15年として実に5年! こんな計算をしたと言ったら医師からそんなとんでもない計算はするもんじゃないと。。。その通りですな。でもこの”発見”後、ますます頭痛と真剣に向き合おうと決意がついた。

タイトルは片頭痛ですが、愚痴るつもりで書いているわけではないです。そうではなく”決意”について。

頭痛、ずっと持っているし”仕方ない”と思っていましたが残り人生のそんな大部分を頭痛と暮らすのはもう”こりごり”と決意。とにかくできることは何でもするしあきらめることをしない。そんな決意ですね。

決意 って 大事ですよ。 ”決意する”とよく言いますが、私もよく言う、実は言葉だけなことが多い。人間、人生でそんなに沢山決意できるものではないと思います。というか私の経験ではそうでした。

私がした決意で人生を変えたのはもう遥か、遥か以前、17歳の時ですよ。高校2年頃ですね。その決意は”大学に行く”でした。 中学3年の時、卒業したらあの時は工業高校に進もうと思っていたのですよ。それがまあ両親の反対もあり普通科のいわゆる高校に進んだのですが高校出たら働くのかな~とくらいにしか思っていなかったですが、何だったか理由はしっかりとは覚えていないですが2年生に上がるとき”大学に進む”と”決意”したのを今でもしっかり覚えています。進める大学は国公立以外なくしかも一回勝負(つまりストレート入学)以外なかったのですが、何かにとりつかれたのか、あの決心(決意)をそれから2年間ずっと持ち続けました。誰にも言ったわけじゃなく、自分で決めたってところなのですが。後年母が言うには私は母に”いずれ 遠い、遠いところに行く”と言ったそうです。まあ、今現在そうなっているのですがその”遠い、遠いところに行く”には大学にいくしか考えつかなかったのかな。

あれほどの決意、長い人生でもほとんど無かった。。。わたしはよく”明日からは毎日30分走る”なんて宣言するのですがそれが自分の決意でもなんでもないことを知っています。決意ってそんなに軽々しくできない。でも決意、いったん自分の中に入り込んだらそんなに簡単に出ていくものでもないことを知ってもいます。

人生を変えるような決意する瞬間がきっとありますよ、という経験談でした。片頭痛、決意なのかそれとも単に言っているだけなのか、まだよくわかっていない。ただただ片頭痛は嫌だというのはわかっていますが。痛いのは嫌だ。

片頭痛持ちなのでほとんどのお酒は飲めません。ビールが唯一安心して飲めるが

それも頭が痛くないときだけ

です。おかげで?酔ったことはありません。その前に頭痛になるからです。 友人曰く、人生の楽しみの半分が楽しめないのは気の毒だとか。。。写真はプラハで飲んだピルスナーです。アメリカドルで1ドル程度。アメリカで買うペットボトルの水より安い。しかもこれまでで飲んだどのビールより美味しかった。片頭痛さえなければ数杯飲むんですが私は一杯だけでした。

自信がつく

自分に自信がつく機会(まさしく瞬間)が人生長く生きていると何度か訪れるものだと思います。例えば 入試に合格した、難関な資格試験にパスしたときなどを挙げることができそうですね。まだまだ沢山あります、例えばもっと挙げると。

ー初めて商談をうまくまとめた。 セールスとしてやっていけそうだ。

ー気になっていた異性とデートの約束ができた。

なども立派にそんな瞬間ではないでしょうか? 

ただ、私自身の経験を振り返ると例えば資格試験にパスしたというのは自信というより満足感に近いようにも思います(私もいくつか日本の国家資格を持っています)。もう30年以上も前になりますが、入試にしても達成感と満足感が大きかったように記憶しています。 デートの約束は自信というより嬉しさですね。となるとこの少ないリストの中では”初めての商談”と言うのが自信というか、やっていけそうだという自分に対するコンフィデンスにつながりそうです。

こんな自信につながるイベント(機会)は人生の中で何度か訪れると思います。何事も不安があるのもです。私は10年以上も設計現場から離れていましたが縁あって昨年末ごろ再び設計の第一線に戻りましたが10年も離れていて実際設計できるのかなとオファーにサインをした後もかなり不安でした。経験年数だけはあるのでエンジニアとしてのポジションはかなり高いところでオファーを受けたのでそれなりの期待もされていましたが”できるのかな?”と。。。家族曰くかなり不機嫌だったそうです。確かに不機嫌だった。。。

私自身が自信を持てたイベントはアメリカにやってきてからでした。日本支社から毎年トレーニングと人的交流を兼ねて一人(若手)エンジニアを本社に1年間出向するプログラムがあったのですがちょうど私の番になり初めての海外がその出向でボストンまで出かけていきました。入れ替わりで帰る同僚と一か月一緒になるのでその間に仕事、生活その他全部”習う”のですがそれが終わると日本人はまさしく一人になります(あのビルには誰一人他に日本人はいなかった)。例年のことなので受け入れ側は慣れたもので色々と教えてくれますが基本的には勉強と人的交流を作るというのが目的だった。 当初はそのはずだったのですが受け入れ先の一つのプロジェクトが遅れに遅れてしまい、別のプロジェクトを始める人員が足りなくなってしまい私もプロジェクト要員として入ることになったのです。日本にいる私の上司はあまり乗り気ではなかったのですが本社はやはり強く私は当面の間という約束でプロジェクトに編入されました。やっていたことはある部分の設計だったのですがメインのエンジニアが入ってくるまでの間の繋ぎ程度の立場でした。つまりあまりあてにはされていないがその部分の設計に手を付けないでいることもできないから、と言ったところですね。細々とやっていましたがそのプロジェクトを仕切っていたマネージャ(私のホストとなる人ではなかった)とは時々それでも進捗などを話し合っていました。彼は奥さんが英語の先生であの当時英語を母国語にしない生徒に英語を教えていたこともあり、私のつたない英語にもかなり辛抱強かった。3か月ほどたったころ、そのプロジェクトのレビューがあり彼は私にも進捗を発表しないか?と言ってきました。そして ”これからは英語で考えて英語をしゃべれ”とあの時アドバイスを受けましたよ。”お前はまだ、日本語で考えて英語の訳している”、とね。当日知ったのですがそのレビューは部門の一番偉いエンジニア(兼副社長)も出席していたのです(年次プロジェクトミーティングで年一度の大きなイベントだったのです)。つまりそうそうたるメンバーが出席していたわけです。私は30分ほどの時間でしたがとにかくひたすらにしゃべっていました(今でもよく覚えている)。パワーポイントなどなくプロジェクタを使うので資料もほとんど手書きでした。ひたすらに話、質問にも答え、初めての経験でかなり疲れたのも覚えています。さてその次の日、ホストのマネージャに呼び出しを受けました。かなり上のランクで日ごろはほとんど接触がなかったのですが、彼は”前日のレビューは順調に言ったと聞いた。Mike(副社長)がお前(私)にその部分の設計を任せろと言った”ので今日から正式にお前の担当になる。もう日本にもMikeが知らせた(つまり上からの命令という形になった。)それとMikeがコロラド(彼の本拠)でのフォーラムにお前を招待したからコロラドに行く準備をするようにと。フォーラムに参加できるのは非常に限られたエンジニアだけでした。 つまりMikeに認められたわけですね。Mikeが認めたというわけでその日以降突然色々な人がやってくるようになりました。詳しくお前のアイデアを説明してくれ、と言うのですね。まるで芥川賞をもらった新人作家のような感じでしょうか?。コロラドにも行きました。Mikeが色々とお膳だけをしてくれたのでそれまでの人脈とは違うもっと上のレベルのエンジニアと議論する機会できたのです。あの時ですね、やっていけると感じた(確信した)のは。プロジェクトチームに正式に編入され(本社勤務に変わった)担当部分の責任者となり私自身若かったですがより若手エンジニア3人とチームを組むようになりました。たった一回30分の発表でしたがあれが今自分がこのエンジニアリングの世界でやっていけるという確信をもったきっかけな機会です。以後は、より面白いプロジェクトに社内で移っていけるにもなりましたし(色々後押ししてもらえた)、皆が行きたかったカリフォルニアのオフィスにもその当時の上司が選んでくれました。

あのときもしうまくいかなかったらどうしていただろうと考えたことが何度かあります。どうしていたか? いやどうなっていたか? どうなっていたかは予想はつきます。暫定的にプロジェクトに入っていただけですから時が過ぎたところで日本の部署に戻っていたでしょう。もともとはトレーニングが主体で来ていたわけですから。どうしていたかな? なのですが今考えてもよくわからない。細々とやっていたのかな?何か探したのかな?

チャンスに備えて日ごろから準備しておくんだとは誰もがいうんですね。私もそう思うんですが準備ができていないからってチャンスを逃してはだめだと先のブログで書きました。私はあのミーティング、あのマネージャに言われたとき”やりたくない”とだけは言わなかった。よくわからないが彼も”良いチャンスだからやると言え”とだけ言ってましたよ。良いマネージャでした。実際あれほどのチャンスは中々なかったですから。当日まで誰がでるのかもよく知らなかったのですがたぶん興奮もあったのでしょうね、とにかく自分でも驚くほどにしゃべり続けましたから。 まさしく日本語から英語への頭の中での翻訳をしなかったと記憶しています。あの日以来翻訳をしなくなりました。

あれ以来カリフォルニアに来てもずっとエンジニアができているし、いい会社に誘ってくれるし、その時以降、もう”できない”とは思わなくなりましたね(最近マーケティングからエンジニアに戻った時はさすがに悩んだですが)。難しいけれど、なんとかなるさ、という自信はどこに転職してもあります(転職8回の経験者)。

そういった機会が人生ではあると思います。その時が早くやってくる人もいれば私のように30を過ぎてからのこともあるんです。

最後に、機会は決して平等に与えられるわけではないです。機会平等というのは実際の社会ではまず無いと思います。だからこそ、機会がやってきたら”逃すな”と言いたい。

料理色々と試しますがまだまだ失敗が多い。。。

チャンスが来たら

フランクシナトラのマイ ウエイ という曲、知っているでしょうか? 私はシナトラというより テイラー スイフトのファン(実は年配のファンも多いのですよ)ですがシナトラの声は良いと思いますよ。

さてその曲でも言っているんことですが、チャンスができたら ためらわず、怖がらずにまずはとってみるのですね。 それから考える。逆じゃなく。

昨年一年ほどチェコの会社のコンサルタントをしました。一番の仕事はちょうどそのころ始まった会社の運命を左右するほどの大きな商談、シリコンバレーにある会社ですが、それを成功させるというのが私のメインな仕事でした。それが取れたら会社はあと5年は予算的に大丈夫なくらい大きなビジネスだったのです。チェコの小さな会社にするともう考えられないような話です。しかも私の上司と私は商談がとれたら早いうちに吸収合併させる方向に進めていく予定でもいたのです。かれはボードメンバーでしたからボード(取締役)を説得し、わたしは顧客サイドにそれとなく探りをいれてその可能性も十分検討してあったのです。競合は2社。一社はシリコンバレーの会社でもう一社はアジアの会社でした。

良いところまで話を持っていくことができ、こちらのエンジニアリングの責任者(CTO)を交えたミーティングにまでこぎつけたのです。その大事なミーティングに先立ち作戦会議のミーティングをチェコでしましたが私は出席する予定の人すべてに ”絶対にスケジュールの話はするな。技術的な点のミーティングに特化すること”と何度も釘をさしておきました。技術的に非常に難しい課題があったのですが、相手は技術面というよりスケジュールを気にしていたのです。小さな会社ですからスケジュールにコミットできるのかどうか。。。

さて、ミーティング当日。当初の予定通り進んでいったのですが(朝から夕方までのそれは長いミーティングでした)、最後にその日の締めくくりをしたとき、相手が”最後に何か質問があるか?”と聞いてきたのですね。 私は”今日の議題を持ち帰って検討するまで今のところない”と答えようとしたのですがCTOが最後に”スケジュールは少し融通性があるのか?”と言ったような質問をしてしまった。。。 あれほど絶対にするなと言ってあったのに。。。 顧客側は少し確認してみると言ってくれましたが私は”おとした”と思いましたよ。実際ビジネスは結局取れませんでした。

怖くなったのですね。とにかく厳しいスケジュールを提示されていましたから。だから確認してみた、となるのですが、あの場合”やる、できる”という意思表示が何よりも重要だったのです。何度も言ってあったのですが、若いCTO(30代)で最後にやはり怖くなったのだと思います。後ほど顧客からスケジュールは多少融通が利くと言ってきたのですが”それみろ、聞いてみるものだ”と彼らは言ったのですが”あれはもう選択から落ちたというのと同じだ”と私はわかっていました。

どうやってやるかは後で考える そんなときもあります。ビジネスに限ったわけじゃないですがまずは取らなくてはいけない場合があるのです。得てして逆になるのですがこんなチャンスはない、という機会が訪れたらまずは”とってしまう” それからさてどうするかと考える。できるようになってから ではチャンスを逃すことがあるよ、ということです。

とくに若いうちは自分の前にチャンスがやってきて、そのチャンスを取りたいと思ったらまずは”とること”、これは覚えておいて損はないです。

写真はビバリーヒルズ。ハリウッドの映画スターも沢山住んでいますね。新人で無名だった俳優が一躍スターになることもできるのです。そんなチャンスがやってきたら、できるか、できないかなんか考えないでしょう?オファーがやってきたらまず”やります”と言うに違いない。それからかんがえるでしょう?仮に自分に力不足を感じたら、と思います。 チャンスは逃すな!です。

彼もなんども挑戦した結果今がある。。。